「Fairchild 660/670」設計者の素晴らしき人生

あまりに有名な「Fairchild 660/670」の名に反して、その設計者に光が当たる事はほとんどありません。エストニア出身のレイン・ナーマ(Rein Narma)が第二次大戦を越え、レス・ポールやルディ・ヴァン・ゲルダーなどの天才と繋がりながら、名機を生み出す過程を、紐解いていきましょう。

1950年代の録音機材事情

今でこそ、アーティストやプロデューサーなどの「個人」がレコーディング・スタジオを所有することは、そんなに珍しい事ではありません。

しかし、1950年代初期の世界において、事情はまったく違っていました。

この時代、レコーディング・スタジオと言えば、もっぱらレコード・レーベルが所有する「専門施設」であり、個人や法人が運営するプライベートかつプロフェッショナルなスタジオがレーベルなどと関係なく存在するケースは稀でした。

サン・スタジオ
50年代のヴィンテージ・ロックを築いたと言っても過言ではないSun Recordsの所有するSun Studio。1953年、デビュー前のエルヴィス・プレスリーはこのスタジオに赴き、 $3.98で”My Happiness”と”That’s When Your Heartaches Begin”を録音した。2015年、これら楽曲の権利はジャック・ホワイトによって$300,000で落札された。

つまり、録音機材のニーズ自体もそれだけ限られており、当時録音に使われた機材は、大抵レーベルお抱えの電機技師が手前で作ったお手製品や、外部に特注した「一点物」である場合がほとんどでした。

ところが、こうした「一点物」の中には、現在でも名機として愛され続けているものもたくさんあり、たとえば、現在ではプラグイン化されたEMIスタジオの「TGコンソール」もそうだし、今ではクラシック・リボンマイクのスタンダードとも言えるColes 3038は、もともとBBCによる特注品でした。

ただ、そんな特注品の中でも、明らかに「桁違い」の存在感を放つ機材があるとすれば、それは「Fairchild 660/670」と言えるでしょう。

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Rein Narma(レイン・ナーマ)という人物

「フェアチャイルド660/670(Fairchild 660/670)」というアナログ・コンプレッサー/リミッターの名を耳にしたことはあるでしょうか?

Universal Audio、Waves、IK Multimediaなど、今や大抵のプラグイン・メーカーがその「エミュレート版」をリリースし、世界中のあらゆる音楽クリエイターに愛され続けているプラグインの「元」となった実機です。

20個の真空管と11個のトランスフォーマーを内部に搭載し、重さは実に64パウンズ(29kg)。20dBを優に超えてもクリーンな信号を保つ余裕のヘッドルームを持つ反面、途方もないアナログ回路が音に付与する独特の温かさ。極めて早いアタックタイムとリリースタイム。

その稀少性が需要に拍車をかけた結果、現代における市場取引価格は$30,000(約330万円)を下らないとされています。

一般的にはFairchild 670の流通台数は「約1,000台」と言われていますが、やがてその開発者の名前が「Rein Narma(レイン・ナーマ)」である事にたどり着くと、一人の素晴らしい有志によって、パーソナルな生前インタビューの書き起こしが残されている事に行き着きます。

その中で彼は、「詳しい台数は残っていないんだ。作られたのは多分30か、40台くらいだと思う。そんなに売れなかったんだよ。」と受け答えしています。

レイン・ナーマはフェアチャイルドの製造以外にも、レス・ポールの特注コンソールを設計したり、米国でノイマンマイクの販売を手掛けていた「ゴッサム・オーディオ」で、U47の改造(!)を請け負っていたり、アンペックスの副社長を務めたりと、本当に輝かしい経歴を持った非常に創造性に満ちた人物です。

「(フェアチャイルドを設計したのは)趣味半分、プロフェッショナルな好奇心半分だった」

上述のインタビューでこう答えながら、おそらく笑みを浮かべていたであろう、彼の素晴らしき半生の物語を、これから少しだけ辿ってみましょう。

Rein Narma(レイン・ナーマ)
インタビューでレス・ポールの所有した8トラック・レコーダーについて話すレイン・ナーマ。

第二次世界大戦期:米軍との出会い

レイン・ナーマは1923年、バルト海に面するエストニアに生まれました。

地理的には北ヨーロッパ圏に属するものの、ロシアのすぐ西側に位置しています。現在は独立国家ですが、歴史上のあるポイントではソヴィエト連邦の一部となった国々の内の一国です。

エストニアの地図
エストニアは、バルト三国中最も北方に位置する北ヨーロッパの一国。

1940年、エストニアは第二次大戦が始まって間もなくソヴィエト連邦より占領を受け、併合されています。激化を極めた情勢の最中、レインの父親はソ連によって逮捕、連行され、そのまま帰らぬ人となりました。

若き時代を動乱の中で過ごす事が、一体どういう事か?現代の日本を生きる身に知る術はありませんが、とにかくこうした状況の中、10代半ばのレインは、その後の人生を左右する、ある大きな決断を下しました。

それは、単身、生まれ故郷であるエストニアを、去る事。

貨物列車の中で息をひそめ、いくつもの国境を越えたあと、やがて彼は南方にある米軍難民キャンプのひとつに流れ着きます。そこで、はじめて出会った一人の米兵がキャンプに集う人々に対して、こう問いかけたそうです。

「誰かこの中で英語の話せる者は?ラジオについて知識のある者はいないか?」

英語はレインにとって三つ目の外国語でしたが、電子工学に興味を示し、高校の早い段階からラジオを自作するなどしていた彼は、呼びかけに挙手で応じ、そのまま米軍に従事する事が決まりました。

しかし驚くべきことは、この時の隊が通称「ザ・ビッグ・レッド・ワン」、つまり、米国陸軍第一歩兵師団だったことです。終戦後の「ニュルンベルグ裁判」と重要な関わりがあったこの隊との繋がりによって、レインはその後の「ナチス医師裁判」などを含む一連の「ニュルンベルグ継続裁判」に至るまで、裁判放送に関わる機器の調整やメンテナンスを、約4年間に渡って担当し続けたという事です。

ニュルンベルグ継続裁判
1946年12月から1947年8月にかけて行われた、ニュルンベルグ継続裁判の内の一つ、「医者裁判」。ナチスドイツによる人体実験や安楽死政策などにおける責任者が裁かれた。

継続裁判での任務が一段落付いたころ、レインは今度は国際連合が展開する難民機構の活動に編成される事となり、スイスのジュネーヴに引っ越しました。そこでの任務内容は、難民キャンプ間を移動し、チャリティーコンサートなどのフィールド・レコーディングや通訳に当たる事。

レイン・ナーマは、この時期を通して、「マイクの配置やテープのエディットなど、レコーディングにまつわるすべてを学んだ」と、述懐しています。

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ゴッサム時代:ノイマン・マイク、Ampexテープレコーダーとの関わり

難民機構で築き上げたツテは、その後、電気技師のキャリアを追求したいと考え始めたレインに、米国で職を得るきっかけをもたらしました。

ニューヨークの「ゴッサム・レコーディング」に就職したレインは、数人と「ゴッサム・オーディオ・デベロップメント」という分社を立ち上げ、新商品の開発や、サービスの展開をはじめました。

例えば、当時最高のテープレコーダーとして売り出されていた「Ampex 300」には、実はノイズやディストーションといった問題があったため、彼はAmpex 300の各アンプ部分を丸ごとそっくり交換する為の「Ampex 300専用アンプモジュール」を開発したりしました。

Ampex-300の広告
当時最新式であったテープレコーダー「Ampex 300」。最新式であっても、レインにとっては、ノイズやディストーションが気になる代物であった。

また、当時爆発的な人気を誇っていたノイマン・コンデンサー・マイクのU47は、「マイクを音源に近づけて使う」という近接録音スタイルの流行を巻き起こしていました。

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しかし、近接収録によってマイクのオーバーロードが起こり、音声信号にディストーションが発生するというU47の構造上の特性があったため、レインは、そういう使い方をしてもマイクがオーバーロードしない様な「U47の改造サービス」を展開しました。ノイマンはドイツの企業ですが、米国での取り扱いはゴッサム・オーディオが担っていた為、「公式代理店の」改造サービスという事で、発注する側にも安心感があったのかもしれません。とにかく、レイン自身の発言によると、手掛けた本数は「Several dozens(何十本も)」にも及んだようですので、サービスとしてかなり人気があったようです。

ノイマンU47の広告
ノイマンの米国代理店「ゴッサム・オーディオ」が展開したU47の広告。現存するビンテージ品の中に、「レイン・ナーマ仕様」のNeumannU47が出回っている事も、十分考えられる。

しかし最終的に、レインにとって、ゴッサムにおけるキャリアは長続きしませんでした。「十分な利益を上げられていない」という理由から部門間で対立が起こり、結局、彼の立ち上げたゴッサム・オーディオ・デベロップメントは解消に向かう事となったからです。

レインは「レイン・ナーマ・オーディオ・デベロップメント」として独立する道を選びました。

レス・ポールの8トラック・レコーダー

ゴッサム時代、Ampex 300のノイズとディストーション問題を解決したレインの評判は、ギタリストであり、発明家でもあるレス・ポールの耳に届きました。

サウンドの差別化に腐心したレス・ポールは、早い段階から「プロダクションの重要性」を理解しており、その為の「理想的な実験の場」として、当時としては珍しく「プライベート・スタジオの所有と追求」にこだわっていました。特に、「多重録音」というレコーディング手法の可能性にいち早く注目した彼は、”How High The Moon”(1951年)の発表で、それまで誰も聴いた事が無いような「クリアな多重録音」を披露する事に成功し、以来、その分野の立役者としての名声も獲得していたのです。

「最近Ampexが開発した初の8トラック・レコーダーを買ったが、ノイズとディストーションが酷いので何とかしてくれないか?」

以前、マイクの改造を通してレイン・ナーマと知り合っていたレス・ポールは、ある日、彼にこうした依頼を伝えました。

すでにAmpexのテープレコーダーを熟知していたレインは、レス・ポールの自宅に赴き、その場で彼の8トラック・レコーダーを改良。その後、レコーダーのインプットに合わせた形で、8トラック・コンソールの特注制作という、一台プロジェクトも請け負う事になりました。

レス・ポールのプライベート・スタジオ
1957年、Les Paulに$10,000で販売された世界初のマルチトラック・テープレコーダー「Ampex 5258」(写真右側)は、そのままではノイズとディストーションがひどく、「使い物にならなかった」という。因みに、翌年の1958年、同じモデルをアトランティック・レコードが購入しているが、エンジニアTom Dowdの強い要求によるものだったという。

画像の左側にあるコンソールが、レインによって特別に製造された8トラック・コンソール、通称”The Monster”。そして、右側で8段重ねになっているのが、世界初のマルチトラック・テープレコーダー「Ampex 5258」です。レス・ポールが一番最初のお客さんだったので、シリアルナンバーは「1番」でした。

因みに、先ほどの”The Monster”に対して、このマルチトラック・テープレコーダーの愛称は“Octopus”。一瞬、タコの足が8本で、8トラックだから?と思ったのですが、以前レス・ポールの自宅を訪れたW.C.Fieldsという名のコメディアンが「Lover」の録音を聴いたとき、「おや?あなた、タコみたいな音を出しますね」という感想を伝えたことに由来しているのだそうです。

タコ鳴かねーから!みたいなチンマリとした返しは、アメリカン・テイストには不十分なのでしょうね。

ルディ・ヴァン・ゲルダーと、Fairchild 660

ゴッサムの時代以来、現行機材の「限界」と、それに対する不満に数多く直面してきたレイン・ナーマは、場当たりの「改善」でなく、徐々に「完全な克服」を志向する様になります。

たとえば、当時のリミッターはヘッドルームが10dbしかない様な、「根本的なダイナミックレンジの狭さ」という問題を抱えていたし、何より、機械的な反応に終始し、「音楽的な要素」がありませんでした。ダイナミックな音楽を捉える為には、音楽の本質と同じような反応を示す機械が必要であると、レインは考えました。

その為には、より速く音に反応し、しかも、音の性質によって自在に挙動を変えるリミッターでなければならない。一体、どうすればいいのか?

「Fairchild 660」が、その命題に対する彼の答えでした。

Fairchild-660
レインは、「最適な真空管やトランスフォーマーを探すのに、最も時間をかけた」という発言を残している。真空管の個体差を計る「カーブトレーサー」が存在しなかったため、オシロスコープを使い、ひとつひとつ手作業で調べる必要があったのだという。

Fairchild 660最初の一台を購入したのは、エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーです。

ルディ・ヴァン・ゲルダーは、ジャズ界のレコーディング・エンジニアとして最重要人物とも言われている存在で、ジョン・コルトレーンやマイルス・ディヴィスなどの天才との仕事でも知られています。

彼もまたこの時代には珍しく、自分自身のプライベート・スタジオを所有する事に固執した人物で、1959年に作られた「ヴァン・ゲルダー・スタジオ」は、実に39フィート(約12メートル)の高さの天井を誇り、「素朴な礼拝堂の様な雰囲気を携えていた」という話が残っています。

「自分で空間を作り、自分で機材を選び、操作し、ミュージシャンがこう聴こえてほしいと思うサウンドを録る」という確固たる哲学が、プライベート・スタジオに固執する背景にあったようです。

Miles Davis Workin' 1956
1952年頃~59年の間にRudy Van Gelderが手掛けた作品は、Hackensack, New Jerseyにある彼の両親の家でレコーディングされていたことが知られている。本作、Miles DavisのWorkin’ with The Miles Davis Quintet(1956年録音)も、そうした環境下で録音された。

因みに、レイン・ナーマはルディ・ヴァン・ゲルダーのコンソールのデザインと製造も手掛けています。

ゲルダーのコンソールはレインが製造した初のコンソールで、レス・ポールの特注コンソールは、この後、3台目に作られたものでした。

レス・ポールは、更にモノラル・チャンネルの「Fairchild 660」もレインから購入しています。もったいぶって言いませんでしたが、実は先ほどのレス・ポールのスタジオ写真を良く見ると、”Octopus”の右側にある、もう少し高い棚の一番上部に、「Fairchild 660」の姿を確認する事が出来ます。

シェアマン・フェアチャイルド氏との出会い

「レイン・ナーマ・オーディオ・デベロップメント」として独立したレインは、ニュージャージー州に住居を構えていましたが、ある時、奥さんや子供たちの家族を含めてフロリダに休暇に出かける事にしました。

彼は仕事の電話がかかってきても良い様に「応答サービス」を申し込んでからビーチでくつろいでいましたが、ある時、ベルボーイが「急ぎの要件です」と走って告げに来ました。

ホテルに戻って受話器を取ると、「シェアマン・フェアチャイルド」と名乗る人物から、「チーフ・エンジニアをやってみないか」という、急なジョブ・オファーでした。

シェアマンとレインの二人は、この時点ではまだお互いに会った事はありませんでしたが、相手の人柄に惹かれたのか、レインはこれに二つ返事でOKを出し、フェアチャイルドのチーフ・エンジニアに就任すると共に、待たれていた機材の製造に取り掛かりました。

それが、ステレオチャンネル版「Fairchild 670」だったのです。

Fairchild-670の広告
フェアチャイルド社による商品広告。左下にFairchild670も掲載されており、価格は”$1,495″と記載されている。

なお、レインによると、シェアマンの提示した労働環境はとても公平で、Fairchild 670の権利も部分的にはレインに残る様、きちんと配慮されていたのだそうです。

シェアマンはレインが会った時点ですでに億万長者でしたから、そもそもお金にケチケチした商売には興味が無かったのかもしれません。

「私は経理が嫌いだ」

と、シェアマンはとにかく最初に、こう告げたと言います。

「予算はこれだ。毎月この額を口座に振り込むので、チェックは自分で切ってくれ。支払いはすべて自分でするんだ。残高は秘書に訊けば教えてくれるだろう。全力で仕事を遂行してくれ。」

フェアチャイルドを去ってから

フェアチャイルドで何不自由なく働いていたレインに、ある日Ampexから引き抜きの話がありました。

レインはこの話をシェアマンに伝えると、彼はレインを自宅に招き、二人はその日一日かけて、Ampexのオファーについて話し合ったそうですが、最終的にシェアマンは「もしかしたら、Ampexに行った方が、チャンスとしては良いかもしれない」という事をレインに告げたそうです。

シェアマンは、オーディオは彼にとっては趣味程度のものであり、逆にレインにとっては情熱そのものなのだという事を、良く理解していたのだろう、と、レインは述懐しています。

この時点で、二人はすでに腹を割って本音を話合える友人になっていたのでした。

フェアチャイルドを去ろうと決めたレイン・ナーマはこの後Ampexに移籍しますが、社内のトラブルなどで次々と人が去るなどし、なし崩し的に副社長の座にまで行き着きますが、結局立ち行かなくなり、最終的には退社する事になります。

その後もレインはいろいろな職場に身を置き、台湾や東京、大阪に来る機会も多々あったようですが、やがて自分の会社をいくつか持つ様になり、健全な環境で多くの従業員の上に立つようになっても、「現場主義」のマインドを常に大切にし続けたという事です。

Fairchild 670 の回路図
Fairchild 670の回路図。フェアチャイルド時代に移行してからも、ハンダ付けなど、基本的にはほとんどの作業をレイン自らが手掛けたという。

そんなレイン・ナーマは、奥さんを亡くした約5年後、2011年のちょうど春が息吹く頃、多くの子供たちに惜しまれながらこの世を去りました。

たった6年前は居たのに、もう今は居ないのか・・・と思うと、Fairchildのプラグインでも、ノブを回すのに何だか少ししんみりとした気持ちを覚えます。

因みに、レイン・ナーマがレス・ポールの8トラック・テープレコーダーを調整した時の事を話している様子は、短いですがYouTubeで検索すれば観ることが出来ます。時間があれば、ぜひ視聴してみてください。

“He had just gotten a new 8 track recorder from Ampex…and…IT DIDN’T WORK WELL…!”

(・・・彼(レス・ポール)は、実はちょうど新しい8トラック・レコーダーをAmpexから買ったばかりだったんですが・・・ちゃんと使えなかったんですよ・・・!)

この冒頭のくだりが私はなぜか本当に大好きで、つい何度も観てしまいます。