SSL創設者コリン・サンダースの遺産 : 開拓者のプロトタイプ・コンソール

1996年。週刊ビルボード誌の「スタジオアクション」欄によると、「この年チャート1位を獲得した曲の実に83%がSSLコンソールで制作された」という記録が残っています。NeveやAPIよりも、あなたのプレイリストに最も貢献しているのはSSLかもしれません。本記事では、そんなSSL英国本社スタッフの協力を得て、創設者コリン・サンダースの物語に焦点を当てました。

1979年、SSL創設者コリン・サンダースとSL4000B
1979年、自身の手掛けた商用コンソールの第二世代目に当たる「SL4000B」を覗き込むSSL創設者コリン・サンダース。

「エス・エス・エル」という言葉:閃きに込められた決意

オックスフォードシャー州、ストーンフィールドの地図
オックスフォードシャー州に位置する村「ストーンズフィールド(Stonesfield)」。

ロンドンの中心部から北西に約70マイル走ると、ストーンズフィールドという人口1,600人に満たない村落に到着する。この土地には中世から続く教会や、メソジスト派の礼拝堂が今でも立ち並び、かつて信仰の力が強大な影響力を持っていた頃の名残を、そこら中から感じる事ができる。

1969年、22歳のコリン・サンダース(Colin Sanders)は、この村に住んでいた。電気技師としてパイプオルガンを扱っていた彼は、近頃世間を賑わすトランジスタ技術の波が音響機器の世界にも押し寄せているのを感じていた。現に、おととし発売されたノイマンのトランジスタマイクは、まだ真空管タイプだったU-67の新型モデルとして、すっかり人気を集めている…。

サンダースの携わるパイプオルガンの歴史は古い。3世紀の古代ギリシャが起源であるとすら言われるこの巨大な楽器は、それでも時代毎に慎ましい進歩を重ねてきた。

滝の風圧でパイプに空気を送り込んでいた頃からすれば、今や廃れかけの真空管技術といえど、動力が電気になっただけでも信じられないほどの進化だと言える。

ドン・ベドス著「オルガン技師の美学」の挿絵
18世紀の書物「オルガン技師の美学」の挿絵。左側には手動でパイプに風を送る人物の様子が描かれている。

とはいえ、時代はもう70年代に突入しようとしている。日進月歩で進む技術革新の最中にあって、ノスタルジックな気持ちで寝ている者を待ってくれる世では、すでにない。

今の目から見れば、たしかに鍵盤とパイプを繋ぐ電気ケーブルは前時代的で、見ていてうんざりするほど太く長く、複雑に絡み合っている。狭い教会内でのメンテナンスともなれば、頭痛の種である事は明らかだ。黙っていてもいずれ誰かが何とかするに違いない…。その時、ふいにサンダースにある考えが浮かんだ。

「パイプオルガンの真空管回路もトランジスタ化できるのではないかー。」

果たして、ここから全てがはじまった。
パイプオルガンの次世代制御パーツを製造販売する業態として、サンダースがスタートした会社の名はSSL。

「Solid State(安定した)Logic(論理回路)」、つまり、製品の革新性を顧客に伝える為に彼自身が考えついた言葉であった。

資金は僅か13ポンドー。やがてオクスフォードきっての名士となる彼の、これが最初の一歩であった。

1996年12月7日付のプロダクション・クレジット欄
1996年12月7日付「週刊ビルボード誌」のプロダクション・クレジット欄。レコーディング・ミキシング共に、コンソール名はSSLで埋め尽くされている。

コリン・サンダースのディスコグラフィ

「Festvial at Towersey」の盤面
エンジニアとして最初期の頃のサンダースの仕事を聴くことが出来る貴重なレコードだが、3,000円程度で普通に売りに出されている。

ところで、その1年前に録音された「フェスティバル・アット・タウジー(Festival at Towersey)」というレコードがある。

タウジー・フェスティバルは英国オックスフォードシャー州で夏の終わりに開催される年に一度の祭典で、会場は毎年その日の為に帰郷し、伝統舞踏や音楽を楽しみながら再会の喜びを分かち合う家族や友人たちの姿で賑わう。この作品は1968年開催のフェスティバルで演奏された曲目の一部がライブ収録されたコンピレーション盤である。

一方、その出版元である「ゼウスレコーズ」について、詳しい情報は残されていない。この作品以外に数件のリリースクレジットがレコードカタログのデータベースに辛うじて散見される他、わかっているのはその後「エイコーンレコーズ」というレーベルに発展解消した事と、オーナーがコリン・サンダースであったという事くらいだ。

"Festival at Towersey"のジャケット画像
サンダースの設立したエイコーン(Acorn)に前身レーベルがあったことはあまり知られていない。カタログナンバーはZS6000番台かCF200番台だが特に後者の内ゼウスからリリースされたのはCF-201(本作品、1968年)とCF-202(1969年)のみで、続くCF-203(1969年)以降はAcornの作品となっている。

サンダースの興味は常に音楽と共にあった。

ゼウスがエイコーンに名を変えた頃、ストーンズフィールドの一角にはレーベルの所有するレコーディング施設「エイコーン・スタジオ」が作られ、70年代末までにCF200番台だけでも80を超える作品をリリースし続けた。

現行コンソールへの不満

エイコーン・スタジオでのサンダースの立場は何もオーナーというだけではない。レコードプロデューサーやエンジニアとしての一面も持つ彼は積極的に制作現場にも携わり、多くのオルガンミュージックやフォークミュージックのクレジットにその名を残した。

The Yetties "Fifty Stones of Leveliness"のジャケット画像
The Yettiesは2011年に「リタイヤ」するまで、世界各地にて古き日の民族音楽(フォークミュージック)を演奏し続けた。”Festival at Towersey”収録の2曲は彼らにとって初レコーディングであり、エイコーンからリリースされた本作”Fifty Stones of Loveliness”(1969年作品)は彼らのファーストフルアルバムであった。

しかし制作の場数を踏めば踏むほど、現行コンソールへの不満がふつふつと募っていくのを、彼は感じていた。

「テープリモートまでの距離が遠すぎる」「ルーティングの切り替えをもっと効率的にできないものだろうか?」

プロデューサーやエンジニアとして制作に関わる程、機械職人として考えを巡らせる時間が増えた。

オックスフォードシャー州、ストーンズフィールドの街並
「ウッドストック通り」が「教会通り」に突き当たる交差点。Oxforshire Villagesを運営するロジャー氏に写真の利用を尋ねた際、「あのヘリコプター事故のコリン・サンダースかい」と、当時の報道を振り返ったのが印象的だった。

エイコーン・スタジオの当時を知るスタッフの間では、こんな語り草がある。

「道端に面したスタジオのポストには、テープリールがへばり付けてあったんだ。ここが音楽スタジオだという目印にね」

サンダースの実家は「教会通り」の一番奥にあるごく一般的なストーンズフィールドの家屋で、居住スペースの傍に駐められた「ポータキャビン(移動式プレハブ)」が当時のSSL本社、そして裏庭にあるのが「エイコーン・スタジオ」であった。つまり、そういう工夫をしなければ、来訪者にとっては民家なのかスタジオなのか、本当に区別がつかなかったのだ。

欠けている物があるなら付け足せば良い。やり方がわからなければ自分で覚えれば良い…。寝室ではじめてテープデッキを作った10歳の頃から、そもそも彼はそういう人間であった。

市場に出回る製品に納得できなかったサンダースが、コンソールの自作を視野に入れ出すまで、そう時間はかからなかった。

SSL本社のポルタキャビン
サンダースが設計したコンソールの製造を楽しむスタッフの背後には、慎ましいポルタキャンビンが見える。道端のテープリールを発案したのも、若き日の彼だったのだろうか?その時の事を今も誰かが覚えているだろうか。

「エイコーン」コンソール

こうして、エイコーン・スタジオ用コンソールの製造に取り組み出したサンダースは、まず金属プレートむき出しの試作機を2台完成させた後、3台目に至ってようやく青い塗装を施し、その出来に一定の満足を示した。

これら3台のコンソールは、のちに「SSL史上唯一SLの名がつかなかったコンソール」として知られるいわばプロトタイプで、3台とも単に「エイコーン」と呼ばれた。この内、塗装の施された3台目については、エイコーン・スタジオの案内冊子内でその写真を確認することができる。しかし、一番ニヤリとするのは、その写真の上に印刷された紹介文の一節である。

「…スタジオを作るにあたって市場を見回した時、満足できるコンソールがなかった。だから自分たちでデザインすることにしたんだ。でもだからといって(アマチュアレベルの)ホームメイド品というわけじゃないよ。僕らの関連会社がプロフェッショナルに仕上げた製品さ。その会社はソリッド・ステート・ロジック(株)というんだ。

ただ先ほども紹介した通り、スタジオの前に停まっているポータキャビンがこのプロフェッショナルな会社の本社であることは、冊子のどこにも書かれていない。

エイコーン・スタジオの紹介冊子の一節
どんな偉大な伝説にもつつましい始まりがあるのだという事がコミカルに伝わる、愛すべき実例である。

エルゴノミクス(操作性)の追求

開発だけでなく自身が使う側でもあったサンダースのコンソール設計は、「操作性」という点で既存のモデルよりも遥かに洗練されていた。その象徴とも言えるのが、コンソール中央に配置されたテープリモートセクションであった。

「当時のニーヴ卓で唯一不満だったのは、」

プロデューサーであり、エンジニアでもあるMick Glossop氏は、「レゾリューション」誌の近年におけるインタビューにてこう発言している。

「とにかく何もかも操作性を無視した配置になっていた事だ。だから何かを調整するたびにいちいち立ち上がって手を伸ばす必要があった…今では考えられない事だがね。」

 

一歩進んだスプリットコンサール「エイコーン」
サンダースのコンソールデザインにおいては、もはや誰一人テープ操作の度に立ち上がってコンソールの端まで歩いていく必要はなかった。

「インラインコンソール」に肉薄した「スプリット式」としての機能美

また、当時主流であったスプリットコンソールは、「インプットセクション」と「テープモニターセクション」が別のミキサーとして内部で完全に独立しており、のちに主流となるインラインコンソールと比べ、信号の流れが非常にシンプルであった。

ただ、それゆえに当時複雑化しはじめた制作現場のニーズに対応しきれていない側面があり、たとえばテープアウトをバウンスする度に煩雑な外部ルーティングが必須になるなどの煩わしさがあった。

その点、エイコーンも構造的にはまだスプリット式であったが、パイプオルガンのスイッチ開発で培った技術を応用し、彼はこの信号の入力切り替えを内部的に、かつ瞬時に行うスイッチをコンソールの表面に搭載した。つまり機能的には限りなくインラインコンソールに近づいたデザインが採用されたのである。

エイコーンの行方

「操作性」や「効率性」という点でのサンダースの拘りは常に一貫しており、扱いやすさを配慮したエフェクトノブの配色、各チャンネルに搭載されたオートアタック式のコンプレッサー、ゲートなど、そのデザインからはまぎれもなく現代に続くSSLの系譜を感じ取る事ができる。

完成から40年以上経った現在、「エイコーン」がその後誰の手を渡り歩き、どうなったのかを正確に追うことは難しい。ただ、SSL本社ブログの過去記事には、どうやらかつて「エイコーン」を構成していたと見られるチャンネルストリップが、とあるドイツ人を経て本社スタッフの元に帰ってきたらしい事が記されている。

刻印されたシリアルナンバーは「15」。エイコーンの一部であったこのチャンネルストリップは、以来、本社オフィスデスクの上に座り込み、SSLのルーツとしてスタッフに大事にされているということだ。

SSLチャンネルストリップの比較画像
左側からSSL4000E実機、「エイコーン」チャンネルストリップ、Waves社「SSL E-Channel」プラグイン。確かな「SSLらしさ」がすでにいろいろな個所から見て取れる。

会社の売却とヘリコプター事故によるサンダースの死

サンダースによるコンソールの開発研究は続き、SL4000Eなどの大ヒットを手掛けた後、彼は1986年に会社を2700万ポンドで売却し、91年に会社を去った。その後彼は水道ろ過やハイテク調理システムなど生活に根差した技術の開発に尽力し、地域へのチャリティー活動を続けながら静かな日々を送っていた。

悲劇は1998年1月28日の夕刻ごろ起こった。サンダース一人を乗せたヘリコプターが操縦訓練からの帰宅途中、彼の自宅付近の野畑に墜落したのだ。消防局には当時「火の玉を目撃した」という20件以上の連絡があったとの記録が残されている。

コリン・サンダースの肖像
地域の発展に尽くした彼の死を多くの村民達が悲しんだ。子供たちの遊び場の半数や、教会のオルガンは彼の出資によるものだった。

「もしこの仕事をしていたなかったとしても、」

と、1981年のインタビューにサンダースはこう答えている。

「趣味で似たような事をやっていたよ。好きなことを追求した結果、副産物として富が手に入っただけなんだ。」

婦人と3人の養子を残し、そして数々の人々に惜しまれながら、51歳の誕生日を迎えるその一か月前に、偉大なる先駆者コリン・サンダースはその短い人生に幕を閉じこの世を去った。

「コリンの細部に至るまで完璧さを徹底する姿は、いつも素晴らしい活力に満ちていたわ。」左奥に立つサンダースの右側、ドクター・ローズマリー・サンダース夫人は、彼にとって最良の理解者であり、支えであった。

 

最後に、コリン・サンダースの歴史を紐解くにあたり、過密なスケジュールの合間を縫って惜しみない協力を下さったSSL英国本社ジム・モトリー氏の情熱に深く感謝いたします。

 

次回:SSLの歴史:「SL4000番台」コンソールの軌跡と品格