1962年10月6日、静かな土曜日の朝
ブルースマン、スクラッパー・ブラックウェル(Scrapper Blackwell)の死を調べようとする者は、まるで雲をつかむ様に、多くを知る事はできません。
とにかく1962年の10月6日、何者かが22口径の弾丸を「2発」ブラックウェルの胸に向け発砲し、その24時間後に彼は病院で息絶えたのです。
当時発行されたローカル新聞によると、倒れているブラックウェルが発見されたのは、彼の自宅アパートから徒歩15分ほどの場所にある民家の裏庭。
第一発見者は、その家に住むロバート・ビーム75歳と、その知人で70歳のフランク・ウィリアムズであったことが、同紙第一面にて報道されています。
現場となった民家屋内のベッドの足元からは、同じく22口径のカリバーピストルが発見されており、その持ち主であるロバート・ビームは殺人罪で取り調べを受けた際、「自家製の酒でハイになっていた」「誤って発砲した」という証言を残しているものの、最終的には釈放され、ケースは未解決のまま、捜査打ち切りによる迷宮入りで決着。
今では、「強盗による殺人らしい」という噂だけが無機質な壁となり、真実に接近しようとする者を高く広く阻んでいます。
事件があったのは秋。蒸し暑い夏が去り、ここ大都市インディアナポリスの中心部近くでも、木の葉の色が変わりはじめようとする静かな土曜の朝でした。
かのボブ・ディランをして「俺たちの音楽を辿った先は皆、スクラッパー・ブラックウェルに通じている」と言わしめた伝説のギタリストが歩んだ59年間の終わりは、「有名人の死」という、およそ現象じみたものから遥かかけ離れたごく物静かな出来事として、人々が営む日々の隙間を通り過ぎていったのです。
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Ⅰ:1928~1935年
1930年代前半のブルース界隈において、スクラッパー・ブラックウェルと、ピアニスト レロイ・カー(Leroy Carr)は、良く名の知られたコンビでした。
“How Long, How Long Blues”は、コンビが最初に録音したレコードで、「8,000枚以上売れた」と、ブラックウェルは死のちょうど1年前に受けたインタビューで語っています。
「8,000と何枚か売れた。余りに早く売れたので、製造が追いつかなかったんだ。本当さ。」
もちろん、これは当時としては異例で、その数字の意味は、およそ現在でいう「大ヒット」以上に当たるものでした。
フランシス・“スクラッパー”・ブラックウェル
スクラッパー・ブラックウェルは、1903年2月21日にサウスカロライナ州に生まれ、その後インディアナ州のインディアナポリスに移ります。
16人兄弟の内の一人だった彼には、チェロキー族(インディアン部族の一部)の血が流れていました。
“スクラッパー(戦闘的な者)”という呼び名は、まだ立てない程幼い頃から床を這いずり回って、年上の兄弟の足元をすくっては派手に転ばせていたことから、彼の祖母が名付けたものです。
本名は、フランシス・ヒルマン・ブラックウェル(Francis Hillman Blackwell)でしたが、その名で彼を呼ぶものは、誰もいませんでした。
やがて、シガーケース(木でできた葉巻の化粧箱)にマンドリンのネック、そして6本の弦を張り、ブラックウェルはギターを弾きはじめました。
「誰にも、何も教わらなかった」と語る彼ですが、ギターの腕前はすでに街で噂になっていたのでしょう。
そして、そんな評判を聞きつけ、彼のもとに二人の人物が姿を現しました。
ピアニストのレロイ・カーと、マネージャーのガーンジー
マネージャーで英国紳士のガーンジー(Guernsey)は、すでにピアニスト、レロイ・カー(Leroy Carr)を発掘しており、彼のレコーディングをいくつか手掛けていました。
禁酒法(1920~1933)がまだ施行されていた頃、ブラックウェルのビジネスは、密かに醸造したウィスキーを売りさばく事でした。
二人がブラックウェルの前に表れて、「噂は聞いています。一緒にレコードを作りませんか」と話を持ちかけた時、密造酒の販売事業は違法とは言え順調(?)だった事に加え、彼らがやって来た遠いシカゴまで赴き、やったことも無い「レコーディング」などに関知するのは、彼にとって、まったく気の乗る話ではありませんでした。
しかし、話をしていく中で、彼は二人に対して徐々に好感を抱くようになります。それに、レロイのピアノも気に入っていたし、それに合わせてギターを弾くのも、まんざらでは無いと思い始めていたのです。
次の日、レロイはもう一度ブラックウェルを訪ねてやって来て、こう言いました。
「この街には録音施設が無いようだね。シカゴに連絡して、録音機材を一式、この街にもって来られないか聞いてみるよ」
そして、「もし実現したら、俺とレコードを作ってくれるかい」と提案したのです。
ブラックウェルはこれを承諾しましたが、その返事を聞いたレロイは、二日後にはもうすでにインディアナポリスに録音環境を整えてしまったのです。
1928年、二人の最初のレコーディング”How Long, How Long Blues”はこうして収録され、スクラパー・ブラックウェルは、ミュージシャンとしてのキャリアを歩み始めました。
といのも、そもそも密造酒の販売事業は、じつは彼にとってこの時点ですでに「商売あがったり」状態だったのです。
なぜかと言うと、英国紳士でマネージャーのガーンジーが、初めてブラックウェルと会ったその日に、いきなり彼の酒を一本残らず買い上げてしまったからです。
率直な話、彼にはもう在庫が一本も残っていなかったのです。
シカゴ時代、そしてソロ活動
スクラッパー・ブラックウェルとレロイ・カーのレーベルはヴォカリオン(Vocalion)といって、当時の他のブルース・アーティスト達がおかれていた状況と比較すると、彼らに対する支払い条件は非常にフェアでした。
レコード一枚につき、一律4,000ドル。当時の4,000ドルを現在の価値に直すと、およそ60,000ドルですが、これに加えて、ロイヤルティーもそれとは別に60日おきに支払われていました。
しかし、スクラッパー・ブラックウェルの名はレコードにクレジットされず、楽曲は主にレロイ・カー名義で発表される時期が続きました。
こうした状況を打開するために、ブラックウェルは1931年頃から自身名義のソロも発表。この時期の代表曲とも言える一曲が、”Kokomo Blues”でした。
かの有名な「クロスロード伝説」を残して消息を絶ったロバート・ジョンソンの、現存する僅か29曲の内の1曲、”Sweet Home Chicago”は、スクラッパー・ブラックウェルの本作、”Kokomo Blues”をモデルにしているとする有力な見方があります。
レロイ・カーとの決裂
ソロ名義の成功により、ブラックウェルの名はやっとコンビでのリリースにおいてもクレジットされることになりました。
しかし、そんなコンビも1935年の録音を最後にあっけなく決裂してしまいます。
ギャランティの支払いが元となった争いが起こり、二人はレコーディングの途中でスタジオを去ってしまったのです。アルコールで死亡したレロイ・カーの知らせがブラックウェルの元に届いたのは、喧嘩別れからわずか2か月後のことでした。
更に数か月たったある日、彼は1度だけ再びスタジオにあらわれますが、別のピアニストを迎え、数曲だけレコーディングしたのを最後に、表舞台からぱったりと姿を消してしまったのです。
最後に彼がなぜ一度だけスタジオに戻って来たのか?それが彼の意志だったのか、もしくは他の誰かによるものだったのか?
アスファルト工場に職を求めたその後の彼の空白期間を記述する文献は、存在しません。
Ⅱ:1958~1962年
55歳のスクラッパー・ブラックウェルが再び音楽の道に足を踏み入れることになった理由としては、英国の若者たちや、シカゴの黒人、もしくは、白人民族音楽学者やレコード・コレクターを中心として、局地的に巻き起こっていたブルース・ブームが引き金となったのではないかという考え方があります。
とにかくこの時期を通じて、サン・ハウス、スキップ・ジェームス、ライトニン・ホプキンスと言った「ブルース・レジェンド」たちが、徐々に第二の注目を集めていきました。
一方、あまりに噂の無いスクラッパー・ブラックウェルに関しては、そもそも生死を把握している向きですら限られていた様で、実際に再び発見された時、彼は甥の家で極貧の生活を送っており、ギターすら所持していなかったという状態だったようです。
Nobody Knows You When You’re Down and Out
一方で、インディアナポリスの一部の住民の間では「メソジスト病院近くで見かける、異様にブルースの上手い人」という噂はあった様で、(スクラッパー・ブラックウェルは病院近くのアパートに住んでいた)時折、彼を見かけた人がギターとビールを渡すと、素晴らしい歌声とギターでブルースを聴かせてくれたという逸話が残っています。
この時期に彼が残した音源は多くありませんが、1960年に英国のレーベルからリリースされた”Blues Before Sunrise”は当時絶賛されており、その雰囲気は、彼の死後リリースされた別の作品などに収録されているライブ演奏に対する観衆の拍手の大きさからも、うかがい知る事ができます。
コンサートのブッキングなども次第に増え始め、彼は再び階段を上り始めていたのです。
良き音楽とはだれが決めるのか?
1935年、レロイ・カーの死の3か月後、スタジオに戻って来たスクラッパー・ブラックウェルは、”My Old Pal Blues(古い友のブルース)”という一曲のブルースを収録しており、その曲の詞には、7年間の間、互いに歩み寄った友について、ストレートな言葉が綴られています。
“He’s done singin’, he’s done playin’, you’ll never hear his voice no more”
(彼の歌は止んだ 彼の演奏も止んだ 二度と彼の声を聞くことも無い)
“He was a real good pal, and I’ll miss him everywhere I go”
(本当にいいやつだった 寂しさはどこに行っても募るだろう)
冒頭で紹介したボブ・ディランの言葉は1966年のものですが、じつは続きがあります。
「俺たちの音楽を辿った先は皆、スクラッパー・ブラックウェルに通じている」
「彼は、遥か多くの評価をうけるべき偉大なるミュージシャンだった」
世界がボブ・ディランに与える「評価」を疑う人はいないでしょう。
そして、「音楽の価値」とは、つねに相対的な目線によって決められていくものです。
しかし、それでは良き音楽とは、誰によって、いつ、どこで作られているのでしょうか。
人様による「評価」の本質とは、一体、何なのでしょうか。
スクラッパー・ブラックウェルの生きた人生と彼の才能は、そうした問いを私たちに投げかけてやみません。