ライツ・マイクロフォンの成功
1920年代初頭ドイツ、職業訓練を終えたばかりの若きノイマンは、故郷コーリンから南西に約80キロ離れた大都市ベルリンにて、アンプ開発に携わる研究員としてそのキャリアをスタートさせます。
研究所の監督をしていたオイゲン・ライツは、ある日独立して自分の会社を始めることにしましたが、当時部下であったノイマンを引き抜き、新しい会社に雇い入れることにしました。
結論から言ってしまえば、この二人は近い将来、再び道を別つことになります。その事をライツが予感していたかどうか今となって知る術はありませんが、才能を見通す彼の目に狂いが無かった事は炭素マイクの改良という偉業をノイマンが成し遂げた事で、間も無く証明されました。
当時主流だった炭素マイクの発展にはライツも寄与していました。しかし、炭素の粉を応用したこのマイクは感度こそすぐれていたものの、音質について改善を望む声は少なくありませんでした。
この点を劇的に改良したノイマン考案の新型炭素マイク(社名にちなみ「ライツ・マイクロフォン」と呼ばれた)はまたたく間に評判となり、ドイツ初のラジオ局で採用されるなど、歴史的な成功を収めました。
ところで、コンデンサーマイクといえば当事は限られた研究施設にのみ存在した「専門機器」でしかありませんでしたが、その音質は未だ炭素マイクの範疇を出なかったライツ・マイクロフォンの品質をはるかに凌ぐほど繊細かつ自然なものでした。
「このマイクを量産し、市場に普及させたい。」
当時にあってはそんな雲を掴むような計画を実現させるため、ノイマンはついにライツの元を離れ、ベルリンにノイマン社(注)を設立しました。1928年の事でした
注:本記事においては、混乱を避けるため、社名の推移に関わらず、Georg Neumann & Co.や、Georg Neumann GmbHなどを一律「ノイマン社」と表現しています。
「ノイマン・ボトル」CMV3:世界初の量産型コンデンサーマイク
名前は知らなくても、CMV3の姿は誰しも目にしたことがあるでしょう。
直径9cm、高さ40cm、重さ3kgの大きな筐体をもつこのマイクの姿は、1930年代から40年代というちょうど第二次大戦前後という歴史的な重大シーンの数々において確認する事ができます。ベルリンオリンピックからヒトラー演説に至るまで、当時のドイツ中の国民は、誰もがこのマイクの音色を耳にしていたのです。
また、ノイマンはこの頃マイク開発の他にもアナログレコードを切り出す機械の製造や、今日の電池につながる技術の発明なども行っており、まさに湧き出すアイデアの数々はとどまることを知らず、次から次へと形になっていきました。
しかし、そんな勢いの渦中にあったノイマンにも等しく悲劇をもたらす時代が訪れます。第二次世界大戦只中の1943年、連合国軍の空襲によりベルリンにあるノイマンの工場が破壊されてしまったのです。
拠点の移動を余儀なくされたノイマンは、またゼロからスタートするしかありませんでした。
東西に分割された ゲオルグ・ノイマン の伝統
失われた工場をあとにしたノイマンは、彼の家族と20人余りの社員を連れ、ドイツ東端に位置する小さな町ゲフェルまでやって来ました。工場の建て直しはさっそく行われ、翌年からはこの町でマイクの製造が再開されました。
やがて終戦を迎え敗戦国となったドイツ本土は、その後冷戦へと発展する戦勝国間のにらみ合いに巻き込まれ、東西に分割占領される事となりました。ゲフェルとベルリンは東側のソ連統制下に入ったものの、首都ベルリンについては特別な協定が組まれ、さらに東ドイツ内で西ベルリンと東ベルリンに二分されることになりました。
ベルリンに戻りたいと考えたノイマンは、ゲフェル本社から何人かのスタッフを西ベルリンに送り、とりあえず修理専門の支店をはじめてみることにしましたが、軌道に乗ったこの新拠点はゲフェルの本社とはもうひとつのノイマン社へと発展し、やがてノイマンもベルリンに戻って来る事になりました。
一方、ゲフェルに拠点を置く「東側の」ノイマン社はその後国有化され、個人名を含む社名を禁じられたことから、ついに「ノイマン」を名乗れなくなり社名変更を余儀なくされたものの、西ドイツと東ドイツに分かれた二つのノイマン社は、1961年に建設されたベルリンの壁によって完全に音信不通となるまで密に連絡を取り合っていたという事です。
その後、冷戦期を乗り越えた東側のノイマン社は東西ドイツ統一を経て再度民営化され、今でも「マイクロテック・ゲフェル社」としてドイツ東端の小さな町ゲフェルでノイマンマイクの伝統を守り続けています。