ジム・ローレンス:LA-2A と Teletronix をつくった男

1962年に登場したLA-2Aは、以来、コンプレッサーのスタンダードとして、世界中のスタジオに導入され、数限りない音楽の収録に貢献してきました。現在ではUniversal Audioやビル・パットナムの影に隠れがちですが、才あるLA-2Aの開発者、ジム・ローレンスの残した一部の功績を覗いてみましょう。

ジム・ローレンスの出発

LA-2Aの設計者として知られるジム・ローレンスは、本名をジェームス・F・ローレンス・ジュニア(James F. Lawrence Jr.)と言い、1924年6月24日にカリフォルニア州のハリウッドに生まれました。

一般的に「ジム」と呼ばれている人の本名はジェームスです。「ボブ」の本名がロバートなのと同じことですね。

カリフォルニア州ハリウッド
カリフォルニア州ハリウッド

ローレンスがどの様な幼少時代を過ごしたか?その事を伝える文献はほとんどありません。しかし、彼の生年月日から計算して分かる事は、1939年、ドイツによるポーランド侵攻があったその日、ローレンスは15歳になったばかりの、ほんの少年だったという事です。

1945年まで続いた第二次大戦中、ローレンス少年はレーダーの通信士として米国海軍に従事しますが、兵役から帰還した彼は、電気工学の学位を得る為、University of Southern California(USC)に入学し、卒業しています。

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USCはカリフォルニア州の名門私立大学として知られると共に、地理的にハリウッドが近い事もあり、実は演劇などを含む芸能関連のコミュニティに強いという側面もあります。

ローレンスは、生涯を通してラジオや放送分野に強い情熱をもっていたので、そうしたUSCの校風も少なからず進路の決定に関連していたのかもしれません。

フォレスト・ガンプ
University of Southern Californiaは、多くの映画の撮影舞台としても知られている。映画「フォレスト・ガンプ(1994年公開)」のワンシーンでもUSCを確認する事ができる。

「レヴェリング」という発想

USC在学中のローレンスは、フルタイムで色々な職場に関わりましたが、そのうちの一つがLos Angelesのラジオ局「KMGM(現KYSR)」でのエンジニアとしての経験でした。

ラジオ放送と言うものは、パーソナリティの音声や音楽をリスナーに届けるわけですが、異なる局面ごとに放送音量のレベルに差が生まれる為、ローレンスはなるべく一定の音量を保つため、手動でゲインの調性をしていました。

「このレベル調整を何とか自動で賄えないものか?」

ラジオ局時代に培ったこの発想が、後のLA-2A開発に大きな影響を与える事になります。

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LA-2A心臓部と、冷戦期のミサイル技術の関連性

LA2Aの中に入っているT4という部品があります。

T4はELパネル(電界発光板)とフォトレジスタ(光導電帯)から構成されており、インプット信号の上昇に伴って、ELパネルがより強く発光する様になっています。

一方、フォトレジスタは受け取る光の量によって、自分の抵抗値を変える事ができる部品です。ELパネルの発光が強くなると、フォトレジスタの抵抗値が上昇し、信号の流れがブロックされます。要するに、大きな信号をT4に突っ込むほど、出てくる時の信号が小さくなるという事です。

では、この音量の増減を光に置き換える発想はどこから生まれたのか?と言うと、それはCaltechという会社のロケット推進力部門が請け負っていた機密プロジェクトに、大学在学中のローレンスが密かにアサインされた時でした。

プロジェクトの内容は、「タイタン」と呼ばれたロケットに関する技術開発。

冷戦の兆候と言うのは、終戦の2,3年後にはもう政治的に表面化していますから、この時代でロケット開発と言えば、要するに、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の技術開発という事です。

Caltechで進められていたこのプロジェクトで、ローレンスは光学センサーの開発を担当していました。

という事は、親愛なるジム・ローレンスさん、あなた、もしかして、ソ連を威嚇するためのミサイル開発を手掛けながらも、頭の片隅では、ラジオ局でのゲイン・コントロールの糸口を見つけて喜び勇んでいたということなのですか?

いつもつくづく思う事ですが、冷戦期というのは、極端な危なさと極端なロマンが隣り合わせで共存している様な、本当に不思議な雰囲気を持った時代です。現代を生きる者として、勝手にいろいろな想像を巡らせてしまいますが、当人達が駆け抜けたリアルタイムの経験を味わう術は、今後も一生ない事でしょう。

ジムさん、私はあなたのことが少しうらやましいです。

タイタンI
ケープカナベラルから発射される「タイタンI」。冷戦期の大陸弾道ミサイルは、レーダー回避の為に、一度宇宙空間まで上昇し、そこから標的の上空まで進んだ後、秒速数kmのスピードで落ちてくるしか技術的な方法が無かった。つまり、ロケットや衛星打ち上げ技術の誇示は、「ボタン一つで上空から貴国を破壊できる」という敵国への攻撃能力示唆に直結していた。

Teletronixの設立とまぼろしの「LA-1」

USCを卒業したローレンスは、念願の道を進む為、地元カリフォルニア州のPasadenaに店を開きました。

店の名は「Teletronix」。開業は1958年の事です。

カリフォルニア州ロサンゼルス郡パサデナ市
カリフォルニア州ロサンゼルス郡パサデナ市(Pasadena)。前述のCaltechを含む多くの科学や文化機関が拠点を置いている。

Teletronixの店内には、ラジオや放送に関する数多くの製品が並んでいました。

各種真空管、緊急放送EBSテスト用の信号発生器、多重信号発生器やフルスケールのトランスミッターなどなど。そして、店内の一角には、ローレンスがKMGMラジオ局で抱いた「放送音量の均一化」を実現する為の機材、Teletronix LA-1もディスプレイされていました。

これこそがLA-2Aの最初期モデルであり、今日では写真で目にするのも難しいほど、珍しい機材と言われています。

行方の分かっている2台の内、1台を所有するエンジニアのRichard Kaplan氏が、2014年にカリフォルニア州マリブにある自身のスタジオIndigo Ranch Studioの全機材をまとめてオークションに掛けた事が知られていますね。なんでも、オークションの参加条件は全機材の一挙入札だそうで、一部コレクションの写真(といっても500枚以上!)は今でもネット上で見る事ができます。しかし、残念ながらその中にLA-1の写真はありません。

あれ以来、全コレクションの引き取り手は現れたのでしょうか?

Teletronix LA-1
LA-1(写真上)は100台ほど作られたと言われている。「LA」とは、Leveling Amplifierの略。写真下は、海外のDIYコミュニティによって甦ったLA-1のレプリカで、制作者joe-electro氏によると、LA-1の設計図が入手できない為、中身はLA-2になっているという。

LA-2

商業的なLA-1の売れ行きは、しかしながら、いまひとつと言わざるを得ない状況でした。

電気回路においてプリント基板が流行し出した当時、「ABC」の略称で知られるアメリカ放送局(American Broadcasting Company)は、音響的な観点から空中配線を採用していたLA-1を、「配線が汚い」として酷評したと言われています。

しかし、幸いにも、何台かのLA-1は、その適正価値を察することのできた理解者の元にたどり着くことができ、ジーン・オートリー(Gene Autry)の所有したものも、そうした中の幸運な一台でした。

Gene Autry
Gene Autry(1907-1998)。「カウボーイ歌手(The Singing Cowboy)」の愛称でも名を馳せた彼は、役者としても数多くのウェスタン・フィルムに出演し、輝かしい功績の数々を後世に残した。

ジーン・オートリーはラジオやレコーディングの度にLA-1を好んで使用した為、結果的にLA-1の存在と性能を世に知らしめる事についても大きく貢献し、ローレンスはこの事で大きく勇気づけられました。

LA-1を改良したLA-2が、Teletronixの店頭に並んだのも、間もなくの事でした。

LA-2の広告
LA-2の広告。LA-1と比べ、視認性の高い大きなVUメーターが採用されている。

T4の初採用

Caltech時代にヒントを得たT4という部品について、先ほどお話しましたが、実はT4がはじめて搭載されたのは、LA-2が最初でした。

Teletronix T4
Teletronixがローレンスの手を離れてからも「LA-2A」は製造され続けた。しかし、その心臓部とも言えるT4は、生産時期によってT4A、T4B、T4Cの3つが存在し、制作費のカットを図る理由で、製造時期によって同モデルの個体間ですらクオリティに大きな差があったという。最も音が良かったとされるLA-2Aは、T4Aが搭載された最初期のものであるが、現代においては、T4Aの一部製造工程に関する環境保護庁の認可が下りず、再生産できない状況だという。

LA-1の頃も、「音を光に置き換えて制御する」という発想はあったのですが、光源にネオン電球や白熱電球を採用していた為、インプット信号の増加に対して、発光の始まるタイミングに、比較的大きな時差があったのです。

この「インプット信号の増加→電球の点灯」の時差が、LA-1のアタックの遅さとして現れ、続くLA-2では、光源がELパネルに置き換えられた事から、より速いアタックとマイルドなレシオを実現する事が可能になりました。

LA-2の頃に採用され出したT4に対して、LA-1で採用されていたものはT1と呼ばれています。

LA-2の成功と、音楽レコーディング・スタジオからのニーズ

Teletronixの店頭にLA-2が並びだしてすぐの頃、Sid Feldmanという一人のエンジニアが興味を示し、一台購入しました。

LA-2の商業的な風向きが変わったのは、彼が間もなくLA-2の流通に関わる様になってからです。

彼はまずLA-2をCBS放送に持っていき、23年間続いた人気バラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー(The Ed Sullivan Show)」の収録現場で使う事を勧めました。CBSはすぐにLA-2を気に入り、2台購入。続いて、RCAもニューヨークとナッシュビルの業務用に購入しました。

LA-2の噂は瞬く間に広がり、徐々に放送局以外の音楽レコーディング・スタジオにも導入される様になり、ついに現在私たちがLA-2Aを扱う様に、「音楽機材」としての認知を広めていったのです。

Universal Audio LA-2 Plugin
LA-2はUniversal Audioからプラグイン版としても出ている。

LA-2Aの発明

レコーディング界に受け入れられていったLA-2には、当初想定していなかった新たな要望が寄せられる様になりました。

リアパネルにLimit/Compressの切り替えスイッチを携えた「LA-2A」はこうして誕生し、LA-1から4年後の1962年、ついに完成形にたどり着いたのです。

LA-2Aの広告
LA-2AがTeletronixから発売された当時の広告

Teletronix売却

しかし、LA-2Aの完成した3年後、ローレンスはTeletronixを「Babcock Electronics」に売却。しばらくの間、ローレンスはBabcockにコンサルタントとして残留しましたが、間もなく別の道へと離れ、その後はよく知られている様に、ビル・パットナムがBabcockの放送部門ごとTeletronixを買い取り、以降はLA-2Aの技術を応用する形で、LA-3A、LA-4A、LA-5Aなどを発表していきました。

現在プラグインで有名なUniversal Audioのオーナーは、このビル・パットナムの息子です。

TeletronixとUniversal Audioの両方のロゴが刻印された「現代版」LA-2Aは、今でもUniversal Audioから発売されています。その売れ行きと言えば、ローレンスやパットナムの時代よりも遥かに好調だという事です。

それから

生涯を通じて数多くの発明を手がけたローレンスでしたが、個人的に重要でないと判断した結果、特許を申請しなかった技術もあった様で、たとえば、音響用のLEDを使ったメーターなどもその一つであったという事です。

ジム・ローレンスは、その後もラジオや放送に関する情熱を追い続け、ラジオ局関連の仕事を手掛ける為に、地元のロサンゼルスにとどまらず、メキシコやグアテマラでも活躍しました。

彼の親族はオレゴン州のポートランドにあるスタジオで、今でもLA-1を大切に使っているのだそうです。