AWSやDualityなど、モダンなSSL設計を支えるクリス・ジェンキンス氏を私が知る様になったきっかけは、約8年前、東京のスタジオに導入する機材について調べていた頃でした。しかし、それと同時に、氏が実は80年代における数々の逸話舞台であるタウンハウス・スタジオと深い関わりを持っていたという事実に気が付くまで、さほど時間はかかりませんでした。今回のインタビューは、以前、SSLの歴史を調べるにあたり資料の数々をご提供下さったジム・モトリー氏が、ジェンキンス氏の来日に合わせてセッティングしてくれた事で実現しました。期待と緊張でSSLジャパンオフィスのベルを鳴らした私たちに対して、ジェンキンス氏は自ら玄関のドアを開け、予期しないあたたかさで出迎えてくれました。
原文(英語):Interview with the Designer : Chris Jenkins from SSL
インタビュー:bosswesk(simplestudio.jp)
1:ギタリスト
機材のデザインに興味を持つきっかけとなった出来事が何かあれば、教えてください。
ああ、それは簡単な話さ。私は元々ギタープレーヤーなんだ。だから技術的なことや電気機器について関心があれば、自然とテープレコーダーを欲しがったり、機材の修理をしたり、自作の機材を手掛けたりするものさ。
どんな音楽を聴いていたのですか?
60年代のギタリストだったからね。15、6歳でマーキー・クラブに出入りして、ジョン・メイオールと共演するエリック・クラプトンを観に行ったり、ヤードバーズや、ザ・フー、クリームを観たりした。要するに、60年代という時期の音楽すべてさ。それらに気軽に触れる事ができたんだ。
マーキー・クラブ(Marquee Club)
ロンドンにかつて存在した、ライブハウス/クラブ。60年代のバンドにとって登竜門的な存在でもあり、ザ・ローリング・ストーンズが初演奏した事でも知られる。
ブルースに影響を受けたスタイルが多かったのですか?
即興物が多かった。クリームにしても、ドラマーとベーシストはジャズとブルースが焦点のグラハム・ボンド・オーガニゼーション出身だったし、そう考えると、単なるブルース発展型とは違うと言える。他にも、ビートルズなどポップなモノも聴いた。(ザ・ローリング・)ストーンズも最初はブルースから出発したけど、すぐに変化したしね。影響と言えばそんな所さ。ただ、ギター的な観点から言えば、その前に影響を受けたのは、例えばシャドウズだ。ハンク・マーヴィンの様な演奏にね。
一番最初に興味をもったアーティストは誰でしたか?
シャドウズだね。当初からギター・プレイヤーになりたかったんだ。シャドウズ、ジョー・ブラウン、クリフ・リチャードといった所だね。これらは50年代後半から60年代初期頃の話だ。60年代中頃には、私はもう次に移っていた。
では、それからあなたはアラン・パーソンズと同じバンドでギターを弾いて…
そう。彼とは学校が同じだったんだ。学年も同じだった。アランは1年遅れていたから、年上だったけどね。でも私はすでに2、3のバンドに在籍してたよ。アラン・パーソンスだけというわけじゃなく、ミュージシャンが多かったんだ。他の著名人としては、―ちなみにウェストミンスター・スクールなんだけど-アンドルー・ロイド・ウェバーが同時期にいて、もう一人はそこまで知られてはいないが、ニック・イングマンという作編曲家がいる。あと、耳にしたことがあるかも知れないが、そして彼は2,3年私よりも年下なんだが、トレヴァー・ホーンとの仕事で知られる、スティーヴ・リプソンもいた。
アラン・パーソンズ(Alan Parsons)
英国出身のプロデューサー、エンジニア、ミュージシャン。The Beatles、Pink Floydを手掛けたことで知られる。
アンドルー・ロイド・ウェバー(Andrew Lloyd Webber)
英国出身の作曲家。「オペラ座の怪人」「キャッツ」など、数多くのミュージカル作品で知られる。
トレヴァー・ホーン(Travor Horn)
英国出身のプロデューサー、ミュージシャン。Yes、Seal、The Pet Shop Boys、など数多くの仕事が知られる。
まるで音楽学校ですね!
と言うよりも、ただそういう時代だったんだと思う。YouTubeなど無かったしね。勝手にアイデアを思い付いたり、誰かに何かを見せてもらったり、逆に何かを見せたりしながら、自分たちでいろいろ覚えていったんだ。ウェストミンスター・スクールは結構自由だからね。練習部屋もあったし、たくさんバンドがいたよ。ハウス・コンサートも開催された。コンテストで一度、アコースティック・ギターをソロで弾いた事もあったよ。まあ、だからそういう意味ではどっちかというと音楽的ではあったかな。でも、やはりそういう時代だったのさ。ロンドンのど真ん中で、ギター・ショップが立ち並ぶチャーリング・クロスロードは、歩きで20分だったしね。
コリン・サンダースはオクスフォードシャー州に居たのでしたね。高校生の時、彼の名はすでに耳に入っていましたか?
いやいや。まったく。私はそれから卒業して、大学に行って、大学を辞めて、挙句にはギリシャに行き着いたのさ。
ギリシャですって!?
ギターを弾いていたんだ。
それは、誰かにライブで弾く様に招待されたという事ですか?
YouTubeのリンク送ってあげてもいいけど…
あなたの弾いてるやつですか!?
私の弾いてるやつ。
それはすごく楽しみです!その時はおいくつだったのですか?
22歳だ。まあ、そういう事だよ。ギリシャのロックバンドに加入してたのさ。
ギリシャのロックバ…じゃあ、あなた以外は全員…
それまで一緒に演奏していた英国人のオルガニストが居て、残りはギリシャ人。だから二人がイギリス人で、ボーカルとベースとドラムがギリシャ人だ。
じゃあ、そのために大学を自主退学して…
いや、大学はすでに辞めていた。何もしてなかったんだ。ただ、その理由は多少複雑で…両親が戦争の終結時にギリシャにいたのさ。そんなわけで、ある休日、家族皆でギリシャを訪れた。そこで、父親つながりの軍人の息子と知り合ったのだけど、彼は私と同い年で、しかもミュージシャンだったんだ。やがて、彼のいとこが私をギリシャに招待して、一緒に演奏する事になった。休日に2回くらい行ったな。それから、ヴィック(・マーティン)を連れて行ったんだ。彼はゲイリー・ムーアのキーボーディストを何年にも渡って続けていた人物だ。実際、ゲイリーが亡くなるまでね。でも、まあそういうわけで、私はギリシャに行き着いたのさ。約18か月ほど滞在したと思うけど、その内うんざりしてきてね。バンドとしてどうなるでも無かったし。結局、ただのカバー・バンドだったのさ。
何かしらのゴールを念頭に置いていたのですか?
まあ、バンドは英国のレーベルと契約したかったみたいだけど、そうはならなかったね。でもギリシャのレーベルとは契約した。実は、リンクを送ると言った動画の音楽は私が書いたんだ。たくさんギターが鳴ってるから、言わなくても分かると思うけどね。で、要するに、それが映画に使われたのさ。ギリシャ映画に。でも…
それはもう成功したと言えるのでは?
…どうでもいいさ。でも、そんなわけで、私はイギリスに帰って来て、BBCで音響に関するキャリアをはじめたんだ。BBCとしてはかなり変わった部署に音響エンジニアとして配属されて、どちらかというと商業スタジオに近かった。レコードのカッティング機器もあったし、モバイルもあった。私は多くのライブ録音を手掛けたが、それを通じて、ヴァージンが経営するマナー・モバイルに行き着いた。マナー・モバイルは、オクスフォードにあるマナー・スタジオの一部でもあったんだ。
モバイル
トラック車両の中にコンソールなどのレコーディング機材を詰め込んだ、移動式録音スタジオ。マナー・モバイルは、マナー・スタジオのモバイル部門だと思われる。
それから私はBBCを去る事にして、(マナー・)モバイルの求職に応募した。結果はモバイルでは採用されなかったが、ヴァージンのテクニカル・ディレクター、フィル・ニュールから電話がかかって来て、―彼は今でも業界で有名だが―言うには、「今、ロンドンで建設中のスタジオ施設があるが、興味はあるか」という事だった。なので、私は「ええ、いいですよ」と返事をしたのさ。場所は、私の居たBBCから文字通り徒歩で5分、10分の所だった。ゴールドホーク通りにあって、私はシェパーズ・ブッシュ(通り)に居たからね。
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2:BBCからタウンハウス・スタジオへ
フィルに会いに行ったら、彼らが何をやってるのか見せてくれた。私は「ワオ」と思ったよ。彼らはスタジオを2部屋建設していて、スタジオ1にはマナーと同じ特注のヘリオス・コンソールを、そしてスタジオ2には、彼はソリッド・ステート・ロジックとやらを買うと決めていた。私は聞いたことが無かった。
それが、SL4000Bというわけですね。
そう、Bだ。私は聞いたこと無かったね。でも、その月のスタジオ・サウンド誌には、見開きのソリッド・ステート・ロジックの広告が掲載されていたんだ。私のオフィスの壁に飾ってあるけど、買う気が無い側からしたら、かなり滑稽な広告だね。私はBBCでNeveやStuderに慣れていたんだ。BBCのモバイル・トラックは、中に上等なNeveを積んでいたのさ。
あなたはすでに名実ともに優れたギタリストだったわけですが、そうした複雑な音響機材を扱う事にはどの様に親しんで行かれたのですか?
BBCでさ。非常にすぐれた研修があるんだ。
知識や技術の受け渡しはどんな風に行われていたのでしょうか。
まあ、他の人から学ぶんだよ。最初、BBCに入った時は、テープ・オペレーターや編集を手掛ける事からはじめた。そして、そこで耳を鍛えられるのさ。編集をしたり、機材の調整やマスタリングをやって行くうちに、自然とコンソールの操作をして行くんだ。
でも、ミュージシャンとエンジニアが聴いている音というのは、私の耳には、別物である様に聴こえます。
ああ、そうさ。その通りだよ。
その移行については、どのようにして取り組んだのですか?
例えば、私は自分自身をエンジニアリングする事はできないんだ。変えようとしているところだが、いつやっても心地良いものじゃないね。誰かに卓の操作をお願いして、それでやっと弾けるのさ。演奏と卓の操作を同時にしようとすると、どうしても上手くいかない。
BBCにいた時も、私はたまに音楽をやるためにスタジオを使っていたんだ。実は最初BBCに入った時は、ちょうどロキシー・ミュージックを辞めた人間とバンドをやっていて、ハンマースミスにあるEMIのアイランド・スタジオで2回ほどセッションをした事があった。つまり、私はスタジオを使う側としての経験もあり、一方のBBCでは、先輩エンジニアのレコーディング・アプローチを横で見ていたりもしたのさ。40、50人規模のオーケストラで、軽音楽用の収録もあった。クラシック音楽的な収録もあれば、ロックの収録もあった。だから、身に付いたのさ。タウンハウス・スタジオに行ってからは、最初の1年はメンテナンス担当だったが、たまにセッションを手掛ける事もあった。2年目には、また少しモバイル・レコーディングにも関わった。
それから、実を言うと、マナーがSSLを買うに至った理由は、SSLがマナーから5マイル(約8キロ)しか離れていないこともあったんだ。マナーはキッドリングトンで、SSLはストーンズフィールドにあった。ひょいと足を運んでSSLを知ったフィルが、スタジオ2にはこれを買おうと決めたんだ。私はそういう経緯でコリン(・サンダース)と出会った。というわけで、基本的にスタジオ2のセットアップの世話は、全部私がやったのさ。
そう聞いています!
メンテナンス担当は2人いた。私じゃないもう一人の方は、Helios(コンソール)については理解していたが、そこまで技術的に長けていたわけでは無かった。私ほどテクニカルでは無かったんだ。つまり、彼は何かを外してはめ込む様な修理は出来たが、SSLではそうは行かなかった。まず筐体を開けて、小さな壊れたチップを探し出し、交換する必要があったんだ。私には、それが簡単だった。
壊れたチップ
SSLはコンソールにはじめてコンピューター部分を導入した事で知られる。
コリンは私よりも3歳年上で、私がSSLに入ったのは28歳の時だったから、コリンはまだ31歳だった。彼はあまり物事を真剣に受け止めなかったね。SSLは早い段階でまあまあ成功していたし。コンソールもすでに4台か5台くらい売れていた。
エイコーンを含めてですか?
いや、更に大きな商業規模のBシリーズだ。(以下、英表記はすべてスタジオ名)Country Lane、Produces Color、合衆国のthe Sierra、そしてタウンハウス。デンマークにも一台あった。だから、ぜんぶで7台か8台だな。そしてL.A.のRecord Plantにある巨大なやつは、私が導入した。
3:スタジオ2
スタジオ2に導入するコンソールとして、Neveなどの選択肢もあったのでしょうか?
フィルがNeveを検討した事は無かったね。彼らは何か変わった物を目指していたんだ。それがスタジオ2の目的だったからね、変わった事をするというのが。「石の部屋」なんかもその一環だった。Harrisonコンソールも見ていた様だが、ストーンズフィールドのSSLを視察に行ってから、フィルは結局アメリカ製のコンソールより英国製を買う事にしたのかも知れない。ただ、実質的な決定権を握っていたのは、ミック・グロソップだと思う。私の友人だ。
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ミック・グロソップ(Mick Glossop)
英国出身のプロデューサー・エンジニアで、当時、マナーとタウンハウスのチーフ・エンジニアを務めていた。Van MorrisonやFrank Zappaなど、数多くの仕事が知られる。
はい。ミック・グロソップがタウンハウスのSSLについて受け答えしているインタビューを読んだことがあります。
おお、そうか。先週、ミックと会ったよ。
本当ですか?
あぁ。今でも会ってるよ。彼はミュージック・プロデューサーズ・ギルド(MPG)のディレクターで、私もMPGのメンバーなんだ。先週、クリスマスのお酒の席があったのさ。
それは、さぞ素晴らしかったでしょうね!
そうだな。でも、あの決定には、やはりミックも関与していたと思うね。ミックはタウンハウスでいろいろな作品のエンジニアを務めたんだ。でも、いわゆる真のサクセス・ストーリーとしては、ヒュー・パジャムとスティーヴ・リリーホワイトのコンビがそうだったと言える。実は、XTCの作品で、すでにその兆しは見えはじめていたんだ。アルバムのタイトルは失念したが…”Making Plans for Nigel”という曲が入っているのだが。
“Drums and Wires”ではないでしょうか。ゲート・リバーブが掛かったスネア・サウンドの黎明期をおっしゃっているのですよね?
そうだ。おそらくXTCではないかと思う。でも、実際に(音について重要な役割を担ったの)は、スティーヴとヒューのコンビだったのさ。あの二人は馬が合ったんだ。スティーヴはとても若かった。もうひとつ、タウンハウスのスタジオ2で言えることは、(スタジオ2の場所が)ちょうどメンテナンス室の角あたりにあったんだ。だから、もし何か問題につまづいたとしても、私はすぐに助けに出て行けた。そんなこともあり、スタジオ2のセッションには深くかかわる事が出来たのさ。あのコンソールは当時としては新しくて、誰もよく分かっていなかったからね。
何にせよ、はじまりはそこだ。そして、スティーヴがピーター・ガブリエルの「ピーター・ガブリエル3」を手掛ける事になった。最初はマナー・モバイルを使い、ピーターの自宅でやっていたのだが、オーバーダブやミックスといった仕上げはタウンハウスでやることになり、そこであのリッスン・マイク・コンプレッサーの出来事が起こったんだ。その後、アルバムでドラムを叩いたフィル・コリンズがソロ・アルバムを出す事になり、ヒューにエンジニアとプロデュースをお願いしたというわけだ。
リッスン・マイク・コンプレッサーの夜
あの夜に何があったか、もう少し詳しく教えてもらえませんか。読んだ所によると、ピーターはフィルに一切金物を…
ピーターはアルバムにシンバルを使いたくないと思っていたんだ。でも、彼はフィル・コリンズをオーバーダブに呼んだ。フィルがウォーミング・アップで叩いている時に、誰かがリッスン・マイク・コンプレッサーを押したのさ。そうしたら、信じられないほどコンプレッションされたドラムが得られたんだ。あの日は、天井から全指向性マイクのSTC-4021がぶら下がっていて、―そのマイクは「ボール・アンド・ビスケット」と呼ばれていたんだが―、元々、あのコンソールはリッスン・マイク・コンプレッサーがミニ・スピーカーにしかルーティングされない様になっていたんだ。で、ミックはそれが気に入らなかった。なぜかって、Helios(コンソール)ではリッスン・マイクは何でも好きなスピーカーにルーティング出来たからね。だから私はSSLも同じような仕様に改造していたのさ。そんなわけで、彼らがリッスン・マイク・コンプレッサーを押したとき、ちゃんとメイン・スピーカーからフルのサウンドで音をモニターする事が出来ていたんだ。で、それを聴いたピーターが言うには、「信じられん音だ。これは録音しなければいかん」。で、私にコールが来たのさ。「あれを録音しなければいかん!」とね。
では、また改造する羽目になったわけですね!リッスン・マイク・コンプレッサーの信号を取り上げて、インプットにルーティングする改造を。
まあね。コリンに電話して、「簡単にやる方法はあるかい?」と尋ねたんだ。651があるだろう、あのセンターセクションのやつ。あれには、信号を出入りさせるマルチ・コネクターが2つあるんだ。で、彼は言った。「コネクターの内、ソケットに走る予備のワイヤーがある。」つまり、その内の予備の一本を使って、651の反対側でリッスン・マイク・カードのアウトプットをマルチ・ピン・ソケットに結線すればいいだけのことだった。そして幸いなことに、そのマルチ・ピン・ソケットはAmpexのリモート・コントロールが使っていたものと同じだったのさ。という事で、私はピンもあるし、ツールもあった。要するに、651を取り出して、底のパネルを取り外し、中からピンの付いたワイヤーを一本取って、ハンダ付けすればいいだけの事だった。後は、反対側でその予備ケーブルを適当に見つけておけば良かったのさ。
すごいですよね。
ドキュメンテーションがすごく良かったんだ。すべて、レーベルされていた。あとは、パッチ・ベイに繋いで、チャンネルに突っ込めばいいだけ。そんなこんなで、何とリッスン・マイク・コンプレッサーのアウトプットが完成して、みんなハッピーというわけさ。
全工程でどの位の時間が掛かったか、覚えていますか?
大体3、4時間かな?
しかも「あれを録音しなければ」と言われた直後のわけですよね。
そうだ。だから、「朝来たら完成してるよ」と言ったんだ。
ましてや夜だったと…。
そう。夜にやったさ。でも、夜通し働いたものだよ。あの時代、バンドが入っていれば、大体のプロ・スタジオはメンテナンス・エンジニアを待機させていたんだ。タウンハウス・スタジオは2つスタジオがあったので、いずれにしても、あの夜、私はあそこにいたと思うよ。スタジオ1では別のセッションがあったしね。でも、言った様に、3、4時間の作業だった。簡単さ。それが、あのコンソールの長所でもあったんだ。整備的な観点から言うと、信じられないくらい扱い易かった。センターセクションが丸ごと引っこ抜けて、取り外せて、またロックすればいいだけだから。あとは例の3本のワイヤーと、ハンダ付けだけさ。あのコンソールには数えきれない改造をしたよ。
まだSL4000Bだったのですよね。
そうだ。皆があまり気付いていない事がBシリーズにはあって、それはチャンネル・コンプレッサーが、バス・コンプレッサーと同じという事なんだ。だから、Eシリーズだと、Bシリーズとまったく同じ音を得る事は無理なんだ。
SL4000BもSL4000Aも、全チャンネルにコンプレッサーが搭載されているんでしたね。
そうだ。でもAシリーズに関しては、3バンドEQだった。4バンドEQでは無い。
Aは2台だけしか製造されていないのでしたよね。
2台だけだ。内1台は、私が修理した…
最近ですか?
いやいや。何年も前だ。持ち主が変わり、デンマークのどこかに行ったんだ。
関連記事:SSLの歴史:「SL4000番台」コンソールの軌跡と品格
4:エクスパンダーと、オートメーション・システム
コンソールの全チャンネルにコンプレッサーを搭載する仕様を業界水準に仕上げたのは、SSLの功績だと理解しています。でも、なぜSSLはそうしようとしたのでしょうか?どんな要望がスタジオ側からあったのですか?
スタジオからの要望は特に無かったと思うね。おそらく、コリンの独断だったんじゃないかと思うよ。エキスパンダーの為だと思うけど。当時、誰もが頭を悩ましていたのは、テープ・ヒスだったのさ。
ノイズですか。
そうだ。オートメーションも、そもそもそうした背景から登場したのさ。オートメーションの目的は、再生していないトラックを一斉にミュートすることにあった。テープ・ヒスを避ける為にね。でも、エキスパンダーを使えば、自動的にミュートは起こる。皆の関心がゲートに集まり過ぎて、エキスパンダーの有用さは忘れられがちだ。2:1のエキスパンダーはほとんど透明だったんだ。作動していたとしても、聴こえやしなかった。というわけで、まあノイズが大敵だったのさ。テープ・ノイズに、エコープレート・ノイズ…。なぜって、唯一ディレイとして使えたものと言えば、テープ・マシンだったんだ。例えば、コントロール・ルームでは、確か4台のテープ・マシンがあった筈だが、1台はレコーディング用に使ったものの、他の3台はディレイ・マシンとか、プレート(・リバーブ)のプリ・ディレイとして使われていたのさ。
最近はテープ・ヒスと言えば、ほとんど、有り難がられるくらいですよね。ある意味、アナログらしい空気感が足せるという事で。
当時、テープ・ヒスは必要なかったね。24チャンネルの全チャンネルにテープ・ヒスがあるとすれば、チャンネル数を倍にする度に3dBだ。一つのチャンネルから来るノイズが-50だとしたら、-40になるのはすぐだ。実の所、タウンハウスで実際にオートメーションを使っていた人間は、ほとんど居なかったと言わざるを得ない。誰も使っていなかったんだ。いまひとつ、安心できなかったのだろう。正直な所、あまり信頼できる代物でもなかったんだ。まだ、若干バグってたからね。ミックはいつも使おうと頑張っていたよ。でも、ヒューとスティーヴは一度も使わなかった。
でも、その時点でのオートメーションと言えばすでにSMPTFが…
タイムコードね。
コンピューターも導入されて…
ああ、ああ。
でも、バグっていたのですか?
ああ、そうだ。
一体、どういう風に?
クラッシュするんだ。
いきなり止まるんですか??
そうだよ。だから、私がハックして復旧したとしても、何かが失われているわけ。すると、みんな機嫌が悪くなるのさ。ほんとに、ミックが使ってる唯一の人だったよ。あとは、もしかしたらトニー・プラットかな、何回か使ったのは。でも、ヒューとスティーヴは、一度も使わなかった。私は使ったよ、エンジニアリングする機会があった時はさ。でも、ほんとに使われ出したのは、彼(コリン・サンダース)が1980年にEシリーズをリリースしてからだね。逆に、オート・ロケーターとか、キュー・リストとかはみんな使っていたよ。で、そもそも、タイムコードがサカサマだったという事もあったしさ。あれは面白かったけどね。逆方向に進んで行くんだよ。
一体なぜ…
単に彼らが間違ったのさ。タイムコードを自分で生成して、自分で読み込む分には問題ないんだ。でもある時、私はBBCから持ち込んだものをタイムコードを伴ってテープ・インする必要があって、その時見たのさ、クロックが逆方向に進んでいくのを。再生ボタンを押すと、後ろに進んでいくんだよ。
あぁぁ…!
ま、そういう事もあるよ。分かるだろう?そうやって多くの進歩を重ねて来たのさ。当時の技術が、そうしたことに寛容なこともあったんだ。昨今のテクノロジーにはそんな余地などないさ。たとえ、アナログ技術だとしてもね。表面実装とかもそうじゃないか。80年代の技術でやっていたことを、今やる事はなかなか出来ないのさ。
表面実装(Surface Mount)
プリント基板に、部品を直接埋め込む技術。大量生産が可能となる一方で、もし基盤上の部品が一部故障しても、取り換える事が容易には出来ない。
5:パイオニア
テクノロジーといえば、1975年に登場したHarrison 3232以前、インライン・コンソールは存在しませんでした。「インライン・コンソール」という概念を意識して推し進めた人物としては、デイヴ・ハリソンの他に、コリン・サンダースを挙げても差し支えないと思います。
Harrisonはずっと先進的なコンソール・デザイナーだったからね。近年でもそうだよ。彼らのMPC 5 映像用コンソールは、非常に巧妙だ。(先進的な人物として)ミスター・ハリソンと、MCI社のジープ(・ハーンド)、それにコリン、そしてルパート(・ニーヴ)が居た。一度、AES(オーディオ・エンジニアリング・ソサエティ)で、オートメーションについてパネルを担当した事があった。1980年だったと思うが、ユーザーと製造者が場を共にするんだ。コリンとミスター・ハリソンがいて…互いに話をしている様子を傍観するのは、可笑しかったよ。
何を話していたのでしょうか?覚えていますか?
回路とか、オペ・アンプとか、そういう感じの事さ。面白かったよ。でも、コリンが一番若かったんだ、分かるだろう。
初めて彼に会った時、どう思いましたか?
コリンについてかい?とても気が合ったよ。似たような境遇だったしね。お互い、中産階級、公立学校の出身だし。私がタウンハウスにいた時には、とても良き友達だったさ。よくアドバイスを訊きに電話したものだ。
彼はタウンハウスにも訪れたりしましたか?
ああ、来たよ。それで、私もストーンズフィールドにランチに行ったり、物を取りに行ったりした。私はよくマナーにいたからね。当然ながら、実際にSSLで私が働き出してからは、関係性は多少変わったりしたけども、でも、とは言っても、私たちは依然としてまだ…
ええ、ええ。
彼は1対1タイプの男じゃなく、人に囲まれているのを好んだ。だから、素晴らしいホストだったのさ。普通は、コリンとだけ飲みに行ったりはせず、その他何人かの人と一緒、という感じだった。初期のSSLは、皆、夜の9時、10時まで働いていた。それから、パブのラスト・オーダーに駆け込んだりしたものさ。30人、40人しかいなかった初期のSSLは、とても社交的だった。それが、ある時突然一気に広まっていったのさ。わずか2、3年の内に、生産台数は4倍になるに至った。
6:”E”
SL4000Aが、厳密に何年に登場したのかという事は知らないのですが、想像では1977年ではないかと思っています。
合っているよ。
そして、1979年には、すでにSL4000Eは形になっていたはずです。
Eは、そうだ。最初にお目見えしたということなら、確かに1979年だった。
ということは、たとえば、その間にしても、わずか2年間しかないわけですよね。
そうだね。
よほど忙しかったのではないかと想像しています。その間、一体どの様なクリエイティブな過程を経たのですか?なぜ、そのようなアイデアを短期間の内に考え付いたのだと思いますか。
BからEへの飛躍には、ユーザーの意見が多分に反映されているんだ。主なユーザーは三者いて、まず私たち(タウンハウス・スタジオ)、カントリー・レーン・スタジオのハリー(・サーマン)、そして、レコード・プラントだ。基本的に、皆同じことを要望していた。たとえば、Bシリーズでは、ルーティングは2つのロータリー・スイッチで制御されていた。これについて私たちは、「2つのトラックに行くルーティングを同時にカットしたところで、実用性はあるだろうか?」と思った。それに、ダイナミクスはフェーダーVCA上で動いていたため、何かしらのエフェクトをコンプレッサーの前に挿入する事は絶対に不可能だった。コンプレッサーが物理的に信号チェーンの一番最後に位置しているからだ。
そして、これは恐らく最大の問題だったと思うが、ミックス時に小フェーダーが何の役にも立っていなかったのだ。小フェーダーが追加のインプットとしての役割を持つようには設計されていなかった。まだインラインではなかったHeliosコンソールでは、ミキシング時は、モニター・ミキサーが追加の32チャンネルとして機能した。そういう意味では、当時のSSLには制約を強いられていたんだ。そのせいで、40チャンネル増やす為のモジュールを追加で購入する羽目になったのだからね。なぜなら、テープの1チャンネルに10個の異なるエフェクト等を掛け、更にそれを10チャンネルに対してセンドしたいなどという事が、ミックス時にあるかもしれないわけだ。私たちは皆、そうしたことをコリンに告げたのさ。すると、彼はそれを持ち帰り、今度はEチャンネルのチャンネル・ストリップを手に戻ってきた。小フェーダーはセンドにもリターンにもなるし、ダイナミクスの順番は好きに変える事ができたし、フィルターを分ける事も、いろいろな事が出来る様になった。それで、一気に信じられない位パワフルになったんだ。
UKでこのコンソールが本当に広がるきっかけとなったのは、トレヴァー・ホーンとサーム・スタジオだった。関わりのあるエンジニアが二人いて、それはジュリアン・メンデルソンとゲイリー・ランガンだ。トレヴァーは当時ナンバーワン・プロデューサーで、ゲイリーとジュリアンがオートメーションを使ってみようと決めたんだ。サームでは48トラック(コンソール)を使っていたし、Studer2台にシンクロナイザーもあった。プロダクションの限界を追求していたのさ。オートメーションを使わざるを得なかったんだ。トレヴァーは本当は嫌がっていたけどね。
でも、さもなければ、かなり大勢の人たちが卓の前にゾロゾロ並んで同時にフェーダーを…
実際はそんな風にはしてなかったさ!本当は、そういう事はあまり無かったんだ。ある意味、ちょっとした神話的なものだよ、それは。
神話
卓の前に数人の人が集まり、同時に全トラックのフェーダーなどを操作する事で、マスター・テープにリアルタイムで最初から最後までミックスを行うという話。当時活躍したプロデューサーやエンジニアが、時折、本や雑誌などで言及することがある。
そうなのですか?
そうさ。セクション毎にやって、編集していたんだよ。だから、まず最初のヴァースをミックスするだろう?で、ヴァースの最後のフェーダーの位置に小さな印を付けておくんだ。それから、2番目のヴァースをミックスして、編集でくっつけるのさ。
では、卓の前でみんなでフェーダーを同時に操作していたという出来事は、そもそも全く無かったんですか…
時々ならあったよ。スティーヴ・リリーホワイトとかは毎回そんな風にやってたさ。
でも基本的にはセクション毎なんですね。
セクション毎にやって、マスターを編集でくっつけるんだ。要するに、完成するまで通しでは再生できなかったという事になる。理想的なやり方では無かったね。だから、そんなやり方をしなくて済むというのが、オートメーションの美徳だったのさ。という事で、(SSLコンソールが広まるきっかけは)サーム・スタジオだったんだ。それからというもの、突然、誰もがトレヴァー・ホーンのプロダクションに注目しはじめたのさ。そして合衆国では、(その役割を担ったのは)ボブ・クリアマウンテンだった。クリスと、トム・ロード・アルジーが彼に続いた感じだね。
SSLプロデューサー達は素晴らしいと思います。私はアンディ・ウォレスの大ファンです。
ああ、彼か、分かるよ。ところで、君はブラック・ブックを持っているのかい?
持っています。
そうか、ならいいんだ。あれは、そうした人たちへの、ある意味トリビュート本なんだよ。
ブラック・ブック
SSLコンソールを使うエンジニアやプロデューサーに焦点をあて、賛辞を贈るために1990年に発刊された書。コリン・G・プリングル著。現在は、時折中古で出回っている。
バス・コンプレッサー
SSLの特徴的な音の一つとして、バス・コンプレッサーが挙げられると思います。それについて、あなたのお話を聞かせて頂けませんか?
バス・コンプレッサーの最初のクローンを作ったのは、タウンハウスに居た私たちなんだ。スタジオ1に置くためにね。実は、直接コリンからカードを買って、自分たちのバージョンを作ったのさ!それが、eBayに5年か7年前、出回っていたよ。実は、SSLの若い者がクソほど大量の金と引き換えに手に入れたんだがね。
戻ってきたわけですね!
それで、私に製品の真正証明書を発行してくれ、と言うんだ。
当然です。私だったとしても同じことを言います。
一番古い友人がいるんだ。BBCで共に働いて、私がタウンハウスに移ったら、彼もタウンハウスに来た。私がSSLに行ったら、彼もSSLに来た。私たちは一緒に少なくとも一つ以上のクアッド・バス・コンプレッサーのクローンを作ったのさ。非常に興味深い設計だった。サイドチェイン機能の回路は、実質的にはLA-4のコピーだったのさ。LA-4はオプト・コンプレッサーだ。アタックとリリースの管理に電球を使っていて、ゲイン・リダクション処理の一番最後にそれが配置されている。それとまったく同じことが、クアッド・バス・コンプレッサーの中でも起こっているのさ。ほとんどのコンプレッサーでは、通常、タイム・コンスタントはレシオ設定の前だ。だが、SSLバス・コンプレッサーでは、タイム・コンスタントはレシオの後なんだ。だから、タイム・コンスタントは、コンプレッション量によって多分に影響を受ける事になるのさ。「コンプレッション量を増やすほど、アタックの反応は遅くなる」と言った具合にね。複雑な信号に対しても、非常になめらかな掛かり方をする理由は、こういう構造にあるのだと私は考えている。一方、単純な信号であれば、Eシリーズのクアッド・バス・コンプレッサーもチャンネル・コンプレッサーも、互いに大した違いはないんだ。
クアッド・バス・コンプレッサーについて他に言えることは、実はあれはフィードバック型のコンプレッサーなんだ。BBCのリミッターに基づいていて、メイン信号の制御盤に対して、第二の信号制御盤がサイドチェインの入力部にも設置されている。つまり、コンプレッションが適用されるほど、サイドチェインへの入力は減衰するという意味で、原理的にフィードバック・コンプレッサーなんだ。オープンループ制御型の正方向コンプレッサーではない。Eシリーズのチャンネル・コンプレッサーは、オープンループ制御の正方向コンプレッサーだ。
アナログ・オーディオ・デザイン
Eシリーズの技術的な側面で、何か画期的に目を見張るものはありましたか?
いくつか賢い物はあった。ただ、彼(コリン・サンダース)の回路設計の賢さは、どちらかと言うと制御面にあって、オーディオ面ではそうでもなかった。ほとんどの設計はオペ・アンプの教本通りといえる基本的なものだ。接地をまったく利用しないという判断は画期的だったがね。そうする事によって、たとえば、論理回路が+18~+12の間を走る様になった。0~5では無くね。それで地路電流やハムなどの問題をすべて回避できたんだ。他にも、一つか二つ、賢い物がコンピューター盤にあった。たとえば、SMPTEジェネレーター盤がそうだ。あれはかなり賢かった。
でも、基本的には従来型の技術で作られていたのですね。
信じられない程賢いアナログ・オーディオ設計を求めるなら、私たちが誇るデイヴ・メイトが手掛けた9000シリーズや、今私たちがやっている事の方が上だ。私たちが手掛けるデジタル・コンソールに搭載されている近代的なマイク・プリアンプの設計を見てみると良い。「なんということだ、全くわからん!」となるだろう。DCサーボのあれこれや、キャパシタを除去するアプローチなどは、非常に賢いと言える。なぜなら、少しでも間違えば、不安定になるからだ。今は、実際に組み出す前に、環境をシミュレートするツールがあるんだ。昔は、そんなことは出来なかった。制御側は賢いけど、アナログ音質面は「まあまあ」で、とんでもなくすごいという程ではなかった。当時はいつも、それがSSLに対する批判だったのさ。
何と比較してその様な批判があったのですか?
皆、まだトランスフォーマーの音が好きだったのさ。トラッキング(レコーディング)では尚更だ。トラッキングはNeveでやる事が好まれていた。流行っていたのさ、Neveでトラックし、SSLでミックスする、というのが。でも、とは言ったものの、初期のEシリーズでトラッキングされた素晴らしい音のするレコードは数多くあると、私は思っている。ただ、初期のEシリーズは後期のEシリーズと随分違うんだ。回路改訂の履歴を見ると、数年間に渡り、かなり大きな変更が加えられて来たことが分かるのさ。
ブラウン・ノブとブラック・ノブ
私はトラッキングする時は、どちらかというとブラウン・ノブよりもブラック・ノブの方が好きです。
皆気づいていないけど、興味深い事にブラウン・ノブには2つのバージョン違いがあるんだ。ひとつは、実質的にブラック・ノブと同じなんだ。ブラック・ノブは、元々エア・スタジオ向けに開発された。主な違いは、ハイパス・フィルターが12dBではなく、18dB/オクターブである事さ。そして、カットとブーストのレンジが、より大きい。
微妙な調整をブラウン・ノブでしようとすると…
初期のモデルでは不可能だ。後期のものならできる。ブラウン・ノブの問題点は、センタータップが直接接地に繋がっていたことだ。私はセンタータップを切断したりしていた。そうする事で、低域の挙動が完全に変わるんだが、代わりにノブを中央に合わせても、完全にはバイパスされない仕様になってしまう。
あなたがSSLに入ったのは1981年でしたね。ブラウン・ノブからブラック・ノブへの移行は、その後のことだったのでしょうか?
そうだ。言った通り、エア・スタジオに販売する前は無かったんだ。あれは1983年の事だ。
7:SL4000と、SL9000
以前あなたは、Voxやマーシャルアンプ対フェンダーアンプの構図は、4000対9000に似ていると、仰っていました。
そんなこと言ってたか!(笑)
ええ。その事について、もう少し伺えたらと楽しみにしていたのです。
9000が出て来て、何もかも変わったんだ。技術的にまったく別物、オートメーション・システムも別物。それで、人々は二つに割れたのさ。昔ながらのユーザーは、9000が気に入らなかった。それで突然、昔のSSLの音が有難がられたりもした。ただ、一方の合衆国では、サウンドのクリーンさが気に入られて、9000は人気に火が付いたんだ。オートメーション・システムの細かさもウケた。彼らは、マッセンバーグ・オートメーションなどに慣れていたからね。あれは信じられない程複雑で、必ずしもユーザー・フレンドリーとは言い難い代物だったから。でも、9000はヨーロッパではあまり受け入れられなかった。合衆国が大きな市場だったのさ。そして、実はここ(日本)でも結構何台か売れたはずだ。
実は、あなたは「4000はよりUK向きだ」という様に、エンジニアリング・スタイルの違いについても言及されていました。どんな違いを念頭に置いていらっしゃったのでしょうか?何か精神的な違いがあるのでしょうか。
(溜息)…ユーノウ。英国のエンジニアを間近に見て来た身として、彼らの方が、どこかアメリカ人よりも実験精神に富んでいると思うんだ。ミック・グロソップが良い例さ。彼はいつも別のやり方を模索していた。サーム・スタジオの連中もそうだ。ジュリアン・メンデルソンとかさ。一方、私は、アメリカ人は、その、どっちかというと、彼らのやり方は決まっているんだ。モバイル時代にアメリカ人と仕事をしたのを思い出すよ。彼は、文字通り、ドラムの前にEQとオシレーターを並べ出したんだ。ドラムの音なんて聴いちゃいなかった。(オシレーターの画面を見ながら)EQの設定をはじめて、それをそのままドラムに使うつもりなのさ。何がなんでもね。「これはクレイジーだ。」と思ったけど、それが彼のやりたい事だったんだ。そんなわけで、そういう事を発言したんだと思う。
耳よりも目を使う、一部昨今のエンジニアに通じるものがありますね。
コンピューターの仕業さ。音楽を作るのに、エンジニアはもう要らないのさ。
あなたからその言葉が聞けて嬉しく思います。実はその事もあり、本日は伺いました。たとえば、最近は今までに無い数の方達が「LA-2A=コンプ」という情報を知っていますが、それ以上が掘り下げられてはいません。しかし、様々な失敗、喜び、もがきを経て、新しい機材が登場する過程を知ると、それはまさにクリエイター精神そのものであり、私にとっては、現代の一部アーティストやエンジニア、プロデューサーの仕事よりもずっと刺激的なのです。
思うに、その多くは運だったのではないかな。1176がああいう音なのは、明確な計画があっての事では無いと思う。計画があったとすれば、それはコンプレッサーを設計するという事だけだったはずだ。「試しにゲイン制御にFETを使ってみよう」という事になり、設計したら、ああいう音だったんだ。計画があってたどり着いたとは思えない。BBCのリミッターにしろ、そうさ。非常に興味深い音がするんだ。ただ単に良いんだよ。極端に良いのさ。リミッターなんだよ。コンプレッサーでなく。
「良い」というのは、(リミッターとして)シグナルを一切通過させないという意味ではなく?
違う違う。ただ良い音なのさ。
音楽的に「良い」のですね。
ああ。だから、ルパート・ニーヴが計画をもって設計に取り組んだとは思わない…彼の機材がああいう音なのは、アクシデントなのさ。初期の頃のNeveの設計を見てみると、率直に言って、あれは真空管の設計回路を、そのままトランジスタでまかなっているに過ぎないんだ。OC-35トランジスタをドライバーに使うだって?そんなもの、もうほぼ真空管を使っている様なものじゃないか。(電気回路的には)まったくもってオーバースペックだ。完全に不必要なのさ。
8:メイキング・ミュージックへ再び
このデジタル世代において、もう少し実験的で、クリエイティブであるために、何が出来るとお考えですか?
技術的な部分を焦点にする必要はないと思うね。音楽が、どの様にして作られるのかを考えるべきだと思う。今、音楽は孤立主義的だ。人々が作っているのは孤立さ。チームの関わりから作る事はせず、一人でやれるツールも揃っている。
80年代は、たとえばアルバムのレコーディングともなれば、バンドはせーので演奏する事ができた。実際に、3分間なら3分間、ちゃんと演奏し通す事ができたのさ。私は今でもたまにエンジニアリングを手掛けるが、ミュージシャンはコードを2小節弾けば、それで完了だという事を念頭に置いている。それさえやりきれば良くて、それをあっちに貼って、あっちに貼って、あっちに貼ればいいだけだ。結果は、無菌状態さ。選択肢が多すぎるんだ。音楽を作る事とは何かという事が失われている。スタジオで演奏する事の楽しさの一つは、人の集いそのものでもあった。私はエンジニアリングを理解している反面、ミュージシャンでもあったため、その日のエンジニアによって、ミュージシャンが良いプレイが出来るかどうかが影響を受けるという点に、早々と気付いた。エンジニアの仕事は、何も音を収録するだけじゃない。ミュージシャンの演奏を引き出す環境を作る事も仕事の内なんだ。そういう事が、最近は失われているね。そもそも、そんなこと必要すらなくなっている。ドラムをレコーディングして、ドラマーを帰らせたら、一つ残らずヒットをクオンタイズすればいいのだから。そういう物になっている。作り方が変われば、中身も変わるのさ。SSL バス・コンプレッサー・プラグインのどのバージョンを使おうが関係ない。違いはごく僅かだ。
よく理解できます。
とは言ったものの、私はついにホーム・スタジオを作るんだ。
そうなのですか!?
ああ。
コンソールはもちろんSSLですよね!
さあね!そうとは限らんよ。まあ、無制限に予算があれば、おそらく948を導入するだろう。AWSシリーズは私の寄与で、もう1,000台以上売れている。嬉しく思っているんだ。
本当に素晴らしい事ですよ。
(ゴホン)まあ、聞きなさい。デジタル・ミキシングに関する議論があるだろう。あれなあ…。
ええ、ええ。
私にはまったく意味が分からんのだ。なぜなら、唯一コンピューターが出来る事と言えば、数字を二つ足す事だ。デジタル・エンジンがやっているのはそれさ。数字を足すだけ。間違うわけが無かろう!
(笑)ああ、いいですね!
だから、それ以外の何かがあるに違いないんだ。もし誰かが、デジタル・ミックスの音が違うと言えば、そうさ、音は違うはずなんだ。なぜなら、デジタルが完璧だからだ。一方、アナログには、ノイズフロアという物がある。そして、ノイズフロア以下にある音は、率直に言えばノイズに埋もれて消え去るんだ。デジタル・ミキシングでは、何もかも残り、足され続ける。だから、アナログ世界ではノイズフロアに埋もれて自然と聴こえなくなる不純物が、どんどんと加算されていくのさ。
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ああ、ああ。それは完全に納得のいく見解ですね。考え付きもしませんでした。
それが私の意見と言った所だ。
ここに何時間でも座ってあなたのお話に耳を傾けていたい気持ちです。今日は本当にお時間を作って下さり、ありがとうございました。今日の為に犠牲にしてくださったこともあったろうに、すでにお約束した以上のお時間を頂いてしまいました。でも、最後にもうひとつだけお伺いしても構いませんか?ごく個人的な質問なのですが。
ああ、もちろんだ。
あの…ジミ・ヘンドリクスは、どうでしたか…?
ああ。二回観に行ったよ!