序章:Willi Studer
Studer の歴史は、1912年も終わろうという真冬のある日、スイス、チューリヒの看護学校で、ウィルヘルム(Wilhelm)と名付けられた一人の男児が出産される所からはじまります。
父親は不明。母親のエマ・モージマンは経済的な困苦に直面していましたが、婚外出産という世相の禁忌を破った代償は彼女に冷たくのしかかり、周囲に助けを求める宛ては到底ありませんでした。
そんな状況を見かねた当局は、子を養子に出す様モージマンに迫ります。彼女ははじめこそ躊躇したものの、次第に他に道が無い事を悟り、詮方なく指示を受け入れる道を選びました。
年が明け、夏になった頃、ウィルヘルムの元にようやく良縁が訪れました。ついに、里親が見つかったのです。
スチューダー夫妻の”息子”として温かく迎え入れられたウィルヘルムは、やがて頭脳明晰な少年へと育ち、9年間の初等教育を主席の成績で卒業したそうです。
15歳になる頃には、ウィルヘルム・モージマンは里親の名を取り、ウィリ・スチューダー(Willi Studer)として新たに歩きはじめました。
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Studer の少年期
そんなスチューダー少年は、以前からラジオに対して並みならない関心を寄せていたと言います。
暇さえあればラジオの部品を研究していた彼にとって「将来何になりたいか?」などという問いは、もはや愚問ですらありました。
しかし、16歳の時に、彼がキャリアの一歩として選んだ道は、僅か一年半の内にあっけなく終了してしまいます。電気技師見習いとして籍を置いた町の電気店のオーナーに「もう教える事はない」と”早期卒業”を突き付けられてしまったのです。
ウィリ・スチューダーは仕方なく地元のラジオ産業に就職し、しばらくの間ラジオの修理や営業に携わっていたものの、仕事へのやり甲斐を見い出す事ができず、徐々に発明と設計に対する情熱の芽生えを感じる様になります。
19歳になった頃、チャンスを掴むために、当時スイス最大手だったラジオの卸売業者に転職を果たしましたが、結果は同じく、またもや淡々とラジオの修理を任される中、期待していた独自の開発を手掛ける機会は訪れず、己の素質や可能性を試せない状況に落胆する日々を過ごしていました。
こうした経験から、ウィリ・スチューダーは徐々に「自分の商売を持ちたい」という気持ちを抱く様になります。
後年になって、彼は「仕事を指示される事に向いていなかった。自分自身でやる事を決断をしたかった」という言葉を遺しています。
初の事業立ち上げと失敗
とはいえ、スイス最大手のラジオ問屋に就職したのは、まったくの無駄という訳ではありませんでした。
マーグリット・ベック(Margrit Beck)とウィリ・スチューダーが出会ったのはこの職場での事で、彼女の両親はスチューダーの念願であった事業を立ち上げる資金3,000フランを彼に融資し、ついにスチューダーは彼だけのラジオ製造会社を地元Lotzwilに開業することができたのです。
理想通りのラジオを制作できる環境を手に入れた彼は、高品位の部品を揃え、木造の筐体にさえこだわり、最高級といえるラジオを製造し、販売しました。
しかし、戦間期(1918年~39年)でもあった1932年という世界恐慌真っただ中の時代、当時の平均月収に迫る350フランという金額を一台のラジオに支払いたいと考える顧客は少なく、製品の品質が顧みられることもないまま、2年後、事業はあえなく失敗してしまいました。
再生と上昇
事業は失敗に終わったものの、スチューダーの優れた技術は各方面に知れ渡る事となりました。
彼は友人の立ち上げた会社で設計主任の座に就き、優れたラジオの数々を世に送り出しました。
ちなみにスチューダーの両親はこの頃チューリヒに引っ越し、元々高級家具職人であった彼の父親は、ラジオの筐体を手掛けるなどし、息子の仕事を支えたそうです。この成功を機に、一家は徐々に経済的にも余裕を蓄えていきました。
時代は第二次世界大戦に突入しましたが、軍での8か月に渡る通信技師としての任務を全うしたスチューダーは、その後再びチューリヒに戻り、別の会社でアンプやラジオの設計を継続しました。
1943年になり、ウィリ・スチューダーはベルトルト・ズーナー(Bertold Suhner)と共に、メトローム(Metrohm)という会社を立ち上げました。
メトロームは今日では特にイオン分離機器のメーカーとして知られていますが、方向性が定まっていなかった設立当初はいろいろな物を手掛けており、ある時、スチューダーは高周波オシロスコープの製造に注目し、30台の製造注文を取り付けてくることに成功しました。
しかし、時間とコストの観点から、この受注に関するスチューダーとズーナーの意見は割れ、結局スチューダーは会社を離れ、一人で30台の注文を請け負う事にしました。
ウィリ・スチューダーが自身の名を冠した会社、”Willi Studer”は、1948年1月5日、こうした中で生まれました。
彼の製造したオシロスコープは今までにない構造を持っており、この事によって、”STUDER”の名は更に各方面へと轟く事になったのです。
1.STUDER のテープレコーダー
歯科医のハンス・カスパー
歯科医であり、ウィリ・スチューダーの友人でもあったハンス・カスパー(Hans Casper)が、ある日、彼の元に一台の米国製家庭用テープレコーダーを持ってやってきました。
それは米国Brush社の「サウンドミラー・レコーダー」というもので、歯科医は自分が手掛けるTraco Tradingという輸入会社を通じて(彼は事業家でもあったのです)取り寄せたのでした。
家庭用テープレコーダーがまだ珍しかった時代、カスパーはこの製品をスイス国内に流通させて一儲けしようと考えていたわけですが、彼は電源規格の問題に気が付いていなかったため、スチューダーはさしあたり、この米国製のテープレコーダーがスイスの電源規格でも動くような改造を施しました。しかし、その結果、「サウンドミラー・レコーダー」はガタガタ震えだして、今にも分解しそうな有り様を呈したのです。
「構造的な問題があるのだ」、とウィリ・スチューダーは瞬時に見抜きました。それと共に、この既製品を調整するよりも、ゼロからオリジナルを制作した方が遥かにメリットが大きいだろうと考えました。すると、カスパーはそれを聞くなり、すぐさま500台(!)のオリジナル版テープレコーダーをスチューダーに注文したのです。
ウィリ・スチューダーは、テープレコーダーという新分野の技術自体に興味はあったものの、まさか、こんなにもすぐに、自分が作る事になるとは思っていませんでした。こうなっては、何から何まで一から「自前」で準備をする必要がありました。なにしろ、当時はテープヘッドはおろか、テープレコーダーのテスト機材ですら、市場に出回っていなかったのですから。
テープヘッド
電気信号と磁気を互いに変換する為の部品。
しかも、当時、スチューダー社にいたスタッフは、たったの6人。
尋常でない作業になる事は明らかでしたが、ウィリ・スチューダーの辞書に不可能の文字はありませんでした。
そして、カスパーは狡猾にその事を見抜いていたのです。
「Dynavox」の完成
朝の7時から夜の10時までラボで過ごすという激務の果てに、ウィリ・スチューダーはついにオリジナルのテープレコーダーを完成させました。
モノラル仕様の、19cm/秒(7.5ips)というスピードで60分間の再生が可能なテープレコーダーでした。見た目は、木製と合皮製の2種類から選べるようになっていた様です。
こうして、「Dynavox(ディナヴォックス)」と命名されたこのテープレコーダーは、名付け親である歯医者の思惑通り、まさに飛ぶように売れました。ウィリ・スチューダーの元にはすぐに追加で200台の注文が届き、この頃には、スチューダー社の従業員数も、25人に増えていました。
歯科医との決別、そして「REVOX T26」の誕生
Dynavoxの売行きは確かに好調でしたが、ウィリ・スチューダーの不満は鬱積する一方でした。
理由はカスパーの度を越えた中間搾取にあり、その欲深さと言えば、流通業者と合わせて、彼らはDynavox売上げの実に70%を懐にせしめていたというのです。
この状況に馬鹿馬鹿しくなったウィリ・スチューダーは、歯医者と袂を分かつ事を決め、新たな共同経営者のハンス・ヴィンゼラー(Hans Winzeler)と共に、「ELA AG」を設立しました。
「AG」は”Aktiengesellschaft(アクティーンゲゼルシャフト)”という「出資企業」を意味するドイツ語の略で、オーナーが複数いる会社を指して使う、記号的な表記です。
”ELA AG”は、特にセールスとマーケティングを担う為に作られた会社で、STUDER製品の他にも、SCOTCH社製の磁気テープや、Beyer社のマイクなどを取り扱っていたそうです。
ともかく、こうしてハンス・ヴィンゼラーが担うマーケティングの元、Dynavoxはウィリ・スチューダーによって新たに「Revox T26」と命名され、改めて店頭に並ぶ事になりました。
名前が変わっても、Revox T26の人気は衰えず、ウィリ・スチューダーも相変わらず朝の7時から夜の10時まで、時には土日も返上しながら仕事に精を出しました。
一年後にはSTUDER社の従業員は32人にまで増え、”ELA AG”を取り仕切るハンス・ヴィンゼラーには、有能は秘書が必要になりました。
プロフェッショナル向けテープレコーダーの開発
1951年、ウィリ・スチューダーはこれまでの家庭用テープレコーダー「Revox」の製品群に加え、プロフェッショナル向けのテープレコーダー「Studer A27」を発表します。
A27のプロトタイプは、スイス国内の音楽祭ではじめて演奏の収録に使用されるなど、出だしの段階から、業界の耳目を集める事に成功しました。続く4年後には、このA27を更に改良した「Studer A36」が発売され、このモデルも、1年間の内に2,000台以上を売り上げるという大変な人気を博しました。
その後もA36を更に進化させた「A37」、「B37」が発売され、ウィリ・スチューダーはこの時期、まさに破竹の勢いでヒット作を連発していったのです。
こうした成功の裏で、ハンス・ヴィンゼラー仕切る”ELA AG”が、一体どんな洗練されたマーケティング手腕を振るっていたのか気になるところですが、期待と裏腹に、実際にはこの時期、STUDER社のテープレコーダーに関する広告らしい広告は、まったくと言って良いほど見つける事ができません。
なぜか?それは「広告をほとんど打っていないから」です。
ハンス・ヴィンゼラーは、口コミ「だけ」に頼った営業を展開していました。そして、それが可能だったのは、他ならないSTUDER社が、本当の意味で、価値あると言える製品を市場に送り出していたからなのでしょう。
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2.StuderとRevox
ウィリ・スチューダーは、1958年を機に、民生機の生産に特化した「Revox GmbH」(※GmbH=独語で「株式会社」の意)をドイツに立ち上げました。これには国外市場への積極的な進出を強く意識した意図があった様です。
しかし、Revox GmbHの株主引退や住所の移転などが相次ぐ中、民生用のRevoxがドイツで思う様な成功を上げられなかったことも重なり、結局、「Revox GmbH」は1964年に同じくドイツに立ち上げた「Willi Studer GmbH」に合併する事になりました。
またこの頃、ウィリ・スチューダーにとってはじめてである自社工場も建設されました。場所は、チューリヒ中心部から6kmほど離れたレーゲンスドルフ(Regensdorf)で、スイス国内の経営と生産の部門を一つの場所に集約する目的がありました。Sutuder社は、今や、140人の従業員を抱える企業に成長していたのです。
この頃から、製品の製造に必要な部品は、今まで以上に自社工場で賄う様になり、それによって、更に品質を追求を徹底する事が可能になりました。
ザ・ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を収録した事で有名な4トラック・レコーダー「J37」の製造が開始されたのも、時期としては、ちょうどこの頃の事です。
Studer J37
ロンドンにあるアビー・ロード・スタジオは、1960年代における、まさにポップ・ミュージックの震源地であったと言えます。
そして、その状況を作った筆頭功労者として誰もが名を挙げるのが、英国リヴァプール出身の4人組「ザ・ビートルズ」と、そのプロデューサーのジョージ・マーティンです。
新しい機材の可能性は、未知なる音の可能性でもあります。今でもそれは変わりませんが、当時は、更にその事が顕著に現実化する時代でした。
たとえば、オーバーダビング(重ね録り)やテープヘッドを利用したディレイなど、ジョージ・マーティンの思い付く「最新の機材の最新の使い方」が、そのまま「ザ・ビートルズの音」を作っていたと言っても、決して言い過ぎではありません。そうした実験の中で、彼らが駆使した4トラック・レコーダーの存在は、当時、もはやアビー・ロード・スタジオでは常識と化していました。
しかし、この頃アビーロード・スタジオで使われていたテレフンケン製の4トラック・マルチ・レコーダーは、とにかく巨大だったのです。
その巨大さは、4トラック・マルチ・レコーダーを別の機械専用部屋に押し込まなければならない程で、その為、プロデューサーとテープ技師が互いに視覚的なコミュニケーションを取れないという、致命的な問題が発生していました。
そんな状況下で行われるパンチ・インなどの作業は、はっきり言って悪夢でしかありません。
一方、ウィリ・スチューダーの発明した「Studer J37」は、そんなアビー・ロードの悩みを華麗に打破しました。
テレフンケン製と比べて圧倒的に小型のボディは、簡単にコントロールルームに配置する事ができ、コミュニケーションの問題はいとも簡単に解決。しかも、扱いやすく、配線ミスなども起きない設計になっており、かつ、肝心の音も抜群に良かったのです。
J37は、商業的にも大成功を収めました。
その機材としての歴史的重要性は、今でも「レコーディングを変えた一台」として、必ずと言って良いほど多くのエンジニアやプロデューサーによって、リストの上位に掲げられています。
Studer A80
1970年、スチューダー・テープレコーダー史のベストセラーとなるモデルが発表されました。
「Studer A80」は、単にSTUDER社のラインナップとして、一番売れたというだけではありません。米国のAmpexより、日本のオタリより、他のどのテープレコーダーよりも、70年代において、おそらく世界中で一番普及したテープレコーダーと言える程、ヨーロッパ中のどのスタジオにも、1台は導入されていた標準機材だったのです。
A80を使ってレコーディングされた作品を挙げていけば、まるできりがありません。しかし、中でも、ピンク・フロイドの「狂気」は、おそらくA80が収録した内でもっとも名高いアルバムの一つと言えるでしょう。
A80には、モノラル仕様、ステレオ・チャンネル、4チャンネルから、最大24チャンネルまで、いくつかのバージョンが用意されており、1970年から1988年までの長期間に渡って製造され続けました。
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経済の下降と暗雲
1974年、スチューダー社の従業員数は、じつに1,453名にまで成長していました。
しかし、翌年の1975年、ウィリ・スチューダーは、どうやら、経済の下降と、事業の勢いが失速している事を感じ取っていました。
かというものの、彼は従業員の削減などもっての他だと考えていました。
彼にとって、会社や従業員は家族同然で、たとえば、朝出社した際には、必ず各部門を回り、できる限り一人ひとりに挨拶して回る事を欠かしませんでした。そんな姿は、数々の社員達からも、名実共に「Studerの父」として、厚い信頼を集めていたのです。
ウィリ・スチューダーは、この状況を打破する為のテコ入れとして、プロフェッショナル向けのスチューダー・ラインナップを一層増やし、国際舞台での貫禄を強めていきました。
同時に、民生機分野であるRevoxブランドでも、オーディオ機器を「ラックに積む」という新しい概念を生み出した「Revox B700シリーズ」を登場させ、こちらは、製品によっては入荷まで5か月間もの待ちが発生するほどの、ヒット商品となりました。
しかし、こうしたヒットに恵まれたにも関わらず、1975年を境に、STUDER社の売り上げは、ジリジリと下降の道を辿って行くのでした。
1978年
とはいえ、明るい話題が全くなかったわけではありません。
ウィリ・スチューダーは、その長年に渡る功績が評価され、1978年という年に、ETHチューリヒ(チューリヒ工科大学)から名誉博士号を授与されました。彼は、その授賞式の場で、次の様に発言したそうです。
「私ひとりで為しえた仕事では、到底ありません。この名誉は、私の仕事を長い期間支えて下さった従業員の皆さんと共に授かったものと解釈いたします。」
Studer A800
この年はまた、Studer A800が発売された年でもあります。
A800はこれまでの集大成と言うに相応しい製品で、マイクロプロセッサーによる制御が導入された、はじめてのマルチ・テープ・レコーダーです。
A80と比較すると、内部を制御する構造が複雑になった分、できることが増え、操作性は格段に向上しました。たとえば、パンチ・インなどの作業は、A80の時と比べ、圧倒的にやりやすくなりましたが、一方では、修理をするにはそれなりの腕が必要になるなど、考え方によっては、A80とA800は一長一短の関係にあると言えます。出音についても、A800とA80には確かな違いがあり、人によってはA80の方が低音がまろやかだと言い、また、ある人はA800の方が音がクリアに感じると言います。
そんなA800も、A80に引けを取らない位の大変な人気を博しました。
3.ウィリ・スチューダーの願い
時代は80年代に入り、今や、STUDER社の従業員数は1,600人を越え、実に79か国で製品を販売し続けていました。
ウィリ・スチューダーは会社の唯一のオーナーでしたので、株主や銀行、その他パートナー企業などに気を遣う事なく、自由な経営上の判断が下せたのです。これは、製品の品質と従業員を守りたいという、ウィリ・スチューダー本人の願いに基づいた経営方針でもありました。
しかし、そんなウィリ・スチューダーが、ある日、テープマシン「B67」の開発を、インドのボンベイに委託する為の契約の締結に踏み切ります。また、3年後の1983年には、シンガポールと日本とも、子会社契約を結びました。
品質担保の観点から、あれほどライセンス契約を避けていたウィリ・スチューダーが、一体今になり、どうしてこの様な決断を下したのでしょうか。
デジタル化の波
80年代に突入した今や、業界の向かわんとする先は、デジタル一色です。
長らくアナログ技術と向き合ってきた彼は、ここにきて、歯止めが効かない機関車の様に突き進むデジタル化の波に、背中を突かれていたのでした。
本当は、どこかのタイミングで、彼にも「デジタルの波」が起こり始める初動が、見えてはいたと思います。
たとえば、アメリカのHoneywell社は、1968年の段階で、すでに16トラックのデジタル・テープレコーダーを発表していたし、日本のDenon社は、日本放送協会から引き継いだPCM技術を元に、デジタル・レコーディングの技術開発に乗り出していました。
しかし、「テープレコーダー」に集中していた彼にとって、デジタル・レコーダーなどという物は現実味に乏しく映ったのかも知れません。
そんなものが流行る時代がこんなに早く来るとは。ましてや、テープレコーダーが過去の物になり、デジタル・レコーダーに取って代わる時代が来ようなどと、ふっと浮かびはしても、それを差し迫った危機として受け止める現実感も、余裕も、忙しい彼には無かったのではないかと思います。
競合他社は、今やとてつもない勢いで、新しいシェアの取り合い合戦になだれ込んでいきました。
ウィリ・スチューダーはこの時、すでに70歳を超えていました。
Studer A810
Studer A810は、そんなウィリ・スチューダーが80年代に入ってから市場に投入した「アナログ」テープレコーダーです。
A800のコンセプトを更に一歩進め、コントロール部分をデジタル制御に作り替えたのでした。これにより、完全な遠隔操作が可能となり、市場において、辛くも一定の成功を収める事はできましたが、根本的な流れを覆す事は到底できませんでした。
時代はより小型で安価な物へと舵を切り、消費者を引き連れて、どこかへ向かい始めます。
完璧を望み、ひたすら品質を追求するウィリ・スチューダーの居る場所から、時代はどんどんと離れていきました。
D820Xと”DASH”
1986年、ウィリ・スチューダーは、ついに「デジタル」テープレコーダーを発売しました。
テープレコーダーなのにデジタルというのは、何か矛盾している様に感じてしまいますが、これは「デジタル・オーディオ・テープ」というアナログ・テープとは異なる代物で、簡単にいうと、アナログ信号をデジタル規格にエンコードしてからテープに書き込むという、新しい方式です。
アナログ・テープとデジタル・テープは、一目見ただけでは、外見上の見分けが付きませんが、実はテープ自体に金属の塗膜が施してあり、値段はアナログ・テープよりも高価でした。
テープであるからにはアナログ・テープと同じように切り貼りによる編集作業が可能ですが、一方でデジタルでもあるので、複製する際に劣化が生じないというメリットが注目されました。
このデジタル・オーディオ・テープの規格は、1982年にSONYが発案したもので、”DASH”(Digital Audio Stationary Heads)と名付けられました。
D820Xは、この”DASH”を採用して作られたレコーダーだったのです。
D820Xはデジタル機器との同期や、デジタル入出力も備えており、売れ行きとしては、まずまずの成功を収めましたが、その為に投資した開発資金は、スチューダー社史上最大であった、とも考えられています。
“DASH”と”ProDigi”
実はDASHの他に、三菱の手掛けた”ProDigi”という同様の規格も同時に存在し、いわゆる規格争いが展開されていた。
DASH規格の機材を製造した会社としては、スチューダー社の他にSONY自身とTASCAM、一方、ProDigi規格の機材については、三菱・オタリの共同開発が主であった。
ウィリ・スチューダーは、果たしてどんな気持ちで、この競争の渦に身を投じたのだろうか?
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会社の売却、そしてウィリ・スチューダーの死
D820Xの開発と時を前後し、ウィリ・スチューダーはついに引退を考え始めます。
会社は従業員2,000人を抱える大企業に発展していました。彼たった一人で、すべての責任を負うには、年齢として限界が近づいていました。
彼が会社を売却したい意思を表明した時、興味を示した数々の企業が名乗りを上げました。スイス国内から、はたまた国外から、様々なアプローチや条件の提示がなされ、その中には、かのD820Xで共同開発を行ったSONYの名もあったという事です。
1991年、彼は”Swiss SAEG Refindus Holding AG”という”モーター・コロンブス”グループの子会社に、「会社をスイス国内から動かさず、従業員を解雇しない事」という条件の元、ついに、自身の持つすべての会社の売却に同意しました。
しかし、ウィリ・スチューダーの望みは叶えられず、数か月の内に最初の20人が解雇され、続いて36人、やがて、年内までに130人の人員削減が決定されたとの通告を耳にします。
彼は、少しでも従業員と自分たちが残したものを救いたい一心で、会社全体を売却した僅か半年後に、ドイツのボンドルフ支店を自費で買い戻しますが、すでに焼け石に水といった状態でした。
84歳のウィリ・スチューダーは、1996年の3月1日に、会社についての一抹の希望を信じながら、静かに息を引き取りました。
それから
“Swiss SAEG Refindus Holding AG”は、次々と人員削減、支店の閉鎖を行いながら、今度は、自社における取締役の変遷劇を見せるなどの混乱をきたし、最後にはSTUDERブランドとRevoxブランドを二つに引き裂き、それぞれ別々の会社に売却する事で、ウィリ・スチューダーの残したすべてを放棄しました。
“STUDER”ブランドは米国のハーマン・インターナショナル(Harman International)に売却され、そのハーマン・インターナショナルは、近年、韓国のサムソン電子に買収されました。
一方、”Revox”ブランドは、個人投資家グループに対して売却され、その後何度かオーナーが変わったあと、現在はドイツのVillingen-Schwenningenという町で、なにやらJoy Noteという、非常に近未来的なデザイン且つ機能を備えた、民生用オーディオ機器を製造している様です。
日本ではお目にかかる機会はあまりない様ですが、民生機の最先端を行く事がRevoxの精神なら、その現代版としての形が、こういう事に当たるのかも知れません。
気になるという方は、一度ホームページをのぞいてみてはいかかでしょうか?オープンリールデッキはもうありませんが、ウィリ・スチューダーの意思の鱗片を、感じ取ることが出来るかもしれません。